第85局 師匠、目線こっち!
「はぁ……これがタイトル戦に出るって事か」
タイトル戦の全てが初めてな俺には、何もかもが初体験だ。
一人で起きる朝も、一人では持て余すほどに広い部屋も、慣れぬ着物の着付けも。
そして、いつもの弟子の元気な声やメッセージの無い朝も。
「飲み物よし、補給食よし。じゃあ、そろそろ行くか」
着付けも手荷物の準備も終えて手持ち無沙汰な俺は、部屋を早めの時間に後にする。
挑戦者は、タイトルホルダーより先に盤の前に着席しているのが、暗黙のルールだ。
それもあり、俺は余裕を持って部屋を出た。
部屋を出て、対局場へ続く庭園の道を静々と歩くが、実際は心の余裕なんて無く、心臓の鼓動はさっきから早鐘のように鳴り響いている。
初めての着物、初めてのタイトル戦、見事な庭園。
全てが緊張させられる原因となる。
「桃花も、こうやって一人で、初めての着物を着て、一人で歩いて対局場まで向かったんだな……」
今、28歳の俺は、こんなに心臓がバクバクいっているのに、桃花はわずか15歳でこの道を1人で歩いたのだ。
こうして考えると、つくづくうちの弟子は化け物だ。
って、自分のタイトル戦なのに、こんな時まで頭の中で弟子の事がチラつくのかよ!
我ながら呆れるが、俺のタイトル戦の経験なんて、桃花にくっついて同行した物しかない。
ここは、緊張を抑えるために、弟子の力だろうが何だろうが使わねば。
(フリフリッ)
対局場へ続く園庭の散策路も半ばを過ぎた所で、日本庭園には全く似つかわしくない、ショッキングピンクの揺れ動く物体が視界に入った。
アイドルのコンサートでファンが持つような、推しうちわを持った桃花だった。
「ぶっ!? ばっ! 桃花なにし!」
驚いて話しかけそうになった俺を、桃花が無言で口元に人差し指を立ててシ~~ッと制す。
そ、そうだった。
桃花の制止のジェスチャーを見て、慌てて言葉を飲み込む。
対局者への外部からの接触や声掛けは禁止されている。
不正を疑われかねないからだ。
とはいえ、これは大丈夫なのだろうか。
とりあえず、今は対局は一手も進んでいないから、セーフ……なのか?
そう思いながら、俺は桃花が力強く両の手に掲げる2本のうちわに書かれた、『目線こっち!』、『私が買ってあげた着物姿素敵!』のメッセージを見ながらヒヤヒヤする。
そして、俺がメッセージを見届けたのを確認してニカッと笑うと、桃花はうちわを裏返した。
『私の師匠だから大丈夫!』、『頑張れ!』
桃花は今度は大きく頷くと、そそくさと庭園の奥へと消えていった。
わずか十数秒の出来事で、俺は夢でも見ていたのかしらと、しばしポカンとしてしまった。
対局場に入り盤の前に座ると、1分後くらいに羽瀬名人が入室してきた。
慣れた様子で、着物が優雅に翻えらせ、水鳥が優雅に着水するような波紋を幻視させながら盤の前に座る。
「良い顔ですね。程よく、緊張と闘志が混じり合っている」
振り駒の準備をするわずかな隙間に、羽瀬名人が小声で話しかけてくる。
「ええ。弟子に頑張れと応援されたので」
そう言われて、別にいつもの事じゃないのか? とキョトンとする羽瀬名人。
まさか、桃花が庭園で待ち伏せしていたとは思っていないだろうなと思うと、おかしくなってしまい笑みがこぼれる。
「振り駒の結果、挑戦者の稲田八段の先手番となりました。それでは対局をはじめてください」
「「よろしくお願いします」」
憧れた舞台である名人戦。
その記念すべき一局目は、意外なことに笑顔で始まった。




