第82局 弟子からのプレゼント
「ほら師匠。この柄、素敵じゃないですか?」
「ああ、そうだな」
俺は、桃花の言われるがままに選ぶ。
こういうのは、正直よく解らない。
「こっちの色なんて、爽やかで若い感じがして良くないですか?」
「じゃあ、2着目はこれか」
「フフッ、師匠を自分色に染めるっていいもんですね」
「いや、毎度タイトル挑戦の度に、お前に着物を買ってやってる俺はそんな事考えてないけど」
「んもう! 師匠ったら。とっくに弟子の事は自分色に染め上げてる宣言ですか? ここ、呉服店で女将も見てますよ」
「無理やり、いかがわしい感じに持ってったのは桃花の方だろ!」
そんなこんなで、俺たちは例によって御贔屓にしている白玲呉服店へ着物の生地を選びに来ている。
このお店も、最近は桃花のタイトル戦の度にしょっちゅう出入りしているのだが、今回は用向きが違った。
「しかし、師匠が弟子に着物を仕立ててもらうってのもな……」
「師匠。その事は、家で散々話し合ったでしょ。私がプレゼントしたいんだから、黙って受け取ってください」
「はい……」
名人戦への挑戦者となった俺だが、初めてのタイトル戦という事で結構、準備する物がある。
その最たるアイテムが着物だ。
「大丈夫です。お金はたんまりありますから」
「だろうな。棋界でも賞金総額トップだからな」
タイトル七冠保持の桃花の賞金総額は、1億円を軽く超える。
それにプラスして、テレビCMなどのスポンサー料も入るから、その辺のサラリーマンの生涯所得を超える年収となっていると推察されている。
俺の分の着物を買うくらいじゃ、びくともしないだろう。
一方の俺の方の懐事情はというと、ここ数年は、弟子の桃花がタイトルに挑戦したり防衛戦を戦うたびに、着物を師匠の意地で贈っているので寂しい限りである。
いや、俺もA級八段になって、基本給とかは順調に上がってるんだけどね……。
という訳で、自分の着物は安物でいいかと、つい家で呟いたら、なぜか激怒した桃花に説き伏せられて、俺の着物を桃花がプレゼントする運びとなったのだ。
「師匠に着物を買うためだって言ったら、両親も快くお金をおろす許可を出してくれました」
「ご両親にも俺が桃花に着物買ってもらうのバレてるの⁉」
「だって、大きい買い物する時は必ず保護者の同意を得るようにってルールは、師匠が課したんじゃないですか」
「う……それは、そうだが」
こんな形で、自分で定めた厳格なルールが、ブーメランとして自分に帰って来るとは思わなかった。
もう、情けない師匠で本当にすいません、お父さんお母さん。
「しかし、白玲呉服店には桃花の女性着物の仕立てにしか来たことないから、何か男性用コーナーにいるのが凄い違和感があるな」
自分で言っていて少し悲しいが、慣れないものは慣れないのだ。
「初めてはみんなそんなもんですよ師匠」
「……弟子に経験者マウントされるのは嫌だな。さて、これで全部かな」
「あれ? 師匠。名人戦は7番勝負だから、着物はもっと必要なんじゃないですか? あと1着くらい少ないですよ」
「まぁ、いざとなれば着まわせばいいし」
「今更、1着くらい何を遠慮してるんですか。女将さん、この呉服店で一番良い着物を」
「って、冗談だ冗談! 1着は手持ちがあるんだよ」
更なる散財をしようとする弟子を、師匠として慌てて止める。
こいつ、夜のお店の人とかにはまったら、とんでもないカモになりそう。
「師匠、着物持ってたんですね」
「ああ、1着だけな。今まで着る機会はなかったけど」
「クリーニング終わってますので、一緒にお出しします」
「ありがとうございます女将さん」
そう言って裏に引っ込んだ女将さんが、預けていた着物を一式持ってきた。
「なんだか落ち着いた色の着物ですね。ちょっと型は古いけど、いい着物です」
「鋭いな。いっぱしの着物評論家みたいだ」
桃花の的を得た感想に、俺はちょっと驚いた。
「タイトル戦の対局相手の着物をよく見てますからね」
「実際、古い着物なんだよ。俺の師匠である中津川九段から受け継いだ着物だから」
「師匠の師匠からの形見分けの着物ってことですか?」
「そうだな。タイトル挑戦の時には、必ずこの着物を着るって決めてたんだ。随分、待たせちゃったがな」
着物の羽織を指先で撫でながら、俺は感慨にふける。
あの時は、口ではタイトルを目指すと言っていたが、当時のプロ棋士になり立てで着物を受け継いだ俺にはあまりに遠い目標だった。
それが、こうしてタイトル戦の、それも名人戦に出るという所までたどり着けて、こうしてこの着物も日の目を見ることになった。
「師匠の師匠も天国で喜んでるでしょうね」
「すでに一門で姉弟子が女流タイトルを、そして孫弟子の桃花がいっぱいタイトルを獲ってくれてるから、『ようやくお前もか』って笑われちゃいそうだけどな」
しかし、こう見ると中津川一門は女性が強いな。
「名人戦への挑戦者は師匠が初なんですから喜ばしいことですよ」
「そうだな。『一門から名人を』は、一門の最高の誉だからな」
「名人、獲ってくださいね師匠」
ここで、桃花が少し真面目な顔になって俺に発破をかける。
「ああ。着物を弟子に買ってもらっておいて、恥ずかしい将棋は指せないからな」
そう言って、桃花の頭を撫でる。
「もう、師匠。私、4月から短大生ですよ」
「ああ、悪い。つい、いつもの癖で」
俺は慌てて、桃花の頭から手を引っ込める。
「いえ、もっと撫でてください」
「いや、ここ家じゃなくて呉服店で、女将さんたちの目もあるから」
「師匠の着物の代金を出すのは誰でしたっけ?」
「誠心誠意、撫でさせていただきます」
「よろしい」
呉服店の従業員さんに見られないかヒヤヒヤしながら、桃花の頭を撫でる。
桃花は、目をつむって喉をゴロゴロ鳴らす猫のごとく、気持ちのよさそうな顔でご満悦な様子だ。
「桃花も、もう高校卒業か」
「はい。師匠と同じ保育士になるための学校へ行きます」
「そっか」
「師匠の保育園経営の面も、私が支えますから」
フンスッ! と、桃花が気合を入れている。
「弟子だからって、何も将棋以外の道まで俺の後を追う必要なんて無いのに……」
「進路は自分の自由に選べって言ったのは師匠でしょ? だから、私は自分の好きな道を選びました」
こういう所は、師匠の言う事を聞かないんだもんなぁ。
まぁ、短大の学費も全部自分で払うみたいだし、俺が口出しする権利なんて無いのだけれど。
「保育士としては、俺が先輩だな」
「あ、保育園では、師匠って呼ぶより先輩って呼んだ方がいいですか? その方が興奮します?」
「子供たちのいる職場で興奮とかヤメロ!」
やっぱり桃花には、保育士としての適格性は無いのでは? と、やっぱり弟子の心配をしてしまう俺は、どこまでも師匠根性が抜けないなと思いながら、こういう話を弟子と出来るようになった事が喜ばしくもあった。




