第81局 将棋界の一番長い日
1日は24時間。
これは、子供でも知っているこの世の摂理だ。
だが、それでも、ただ自宅でダラダラゴロゴロしていた1日と、仕事の大一番でバタバタと動き回っていた1日の体感時間というのは異なる。
そして将棋界には、『将棋界の一番長い日』と呼ばれている日がある。
それが、A級順位戦最終対局の日だ。
10人のA級棋士が総当たり戦で1年間争ってきた果てに、名人への挑戦者がこの日に決まるのである。
そして、それは往々にして深夜にまで及ぶ。
「よ、稲田君。お疲れ~。や~、今期も何とか残留確定でホッとしたわ」
「…………」
「って、お~い、稲田君?」
「うわ⁉ 北野会長!」
「さっきから声かけてただろ」
空いている対局室で、つい頬杖をつきながら、他のA級棋士たちの対局の中継を眺めていて、いつのまにかうたた寝てしまっていたようだ。
北野会長が声を掛けているのに気づかなかった。
「眠いなら、もう帰ったらどうだ?」
「いえ、大丈夫です」
そう言って、俺は立ち上がって、強張った背中や肩をほぐすように大きく伸びをする。
「ああ、そういや稲田君は帰ってもらっちゃ困るな。名人挑戦権獲得圏内だから、囲み取材もあるかもだからな」
「はい。とはいえ、現在は暫定1位ですが、まだ続いている他の対局結果次第では解りません」
「自力で決めたかった所だろうが、そう甘くはねぇからなA級は。俺も、稲田君から上げた白星がA級残留に効いたな」
「私はどうも北野会長と相性が悪いみたいです」
俺は、先ほどA級順位戦最終局に勝利し、これで7勝2敗が最終結果だ。
「いや、俺と対局した時の稲田君は明らかに調子悪かったろ」
「ちょうど今期順位戦が終わった会長だから正直に言いますが、北野会長と対局した12月は、保育士試験の対策で修羅場だったので、その疲れが出てしまいました」
実技試験の絵の練習を連日連夜行っていたので、将棋の研究が十分に出来なかったのと、絵の描き過ぎで腱鞘炎になりかけていたので、確かにコンディションは最悪だった。
だが、コンディショニングもプロとして当然のことなのだから、敗北の言い訳に何てならない。
それに、保育士も棋士も、仕事としてどうしても両者とも外せないという時がバッティングすることはあり得る事なのだ。
こういう事態が起きることも、二足の草鞋を履くことを決意した時点で、覚悟していたことだ。
「そりゃご苦労さん。けど、保育士試験は無事に合格できたんだろ? おめでとさん。棋士やりながら、しかも最高峰のA級で挑戦者争いまでしてるんだから、文句なんて言えねぇわな」
「ありがとうございます」
「欲を言えば、名人戦以外のタイトル戦で挑戦者として名乗りを上げて、桃花ちゃんと師弟対決なんて実現すれば、スポンサー様もわんさか集まってくれて、俺としてはありがたいんだがな」
「また金勘定の話ですか。それに、他のタイトル戦じゃ意味が無いので」
「ん? なんだ、稲田君は名人のタイトルに特別な思い入れを持つタイプか?」
「あ! いや、その……まぁ、子供の頃から憧れてましたから」
つい、深夜で順位戦の対局終わりという回っていない頭のせいで、ズルッと本音を漏らしてしまったのを、俺は適当なことを言って誤魔化した。
「ま、名人に憧れてない棋士なんていねぇわな。ちなみに俺は名人になったぜ!」
「名人は一期だけで、その翌年度にA級に昇格してきた羽瀬名人に奪取されたんですよね」
「うるせぇ! 覇王位は割と若い頃に獲れたけど、名人位は何故か縁遠かったんだよ!」
肩パンされるの痛いです会長。パワハラです。
「しっかし、稲田君がA級に上がって、タイトル初挑戦か。弟子の桃花ちゃんが喜ぶだろうな」
「まだ全員の結果は出揃ってないですよ会長」
「今更、終盤でこけるような奴らじゃねぇさ。A級棋士だぞ」
そう言って、盤面の中継を映しているパソコンの画面を見ながら、北野会長はふふんと何故か得意げだ。
「会長も、別に残らなくても大丈夫ですよ」
「始発電車が動くまで飲みに行く相手を探してるんだよ」
「そうですか。じゃあ、俺は一緒には行けないですね」
「おう。挑戦者様の悪口で盛り上がるから、来るな来るな」
こうは言っているが、こうして負けた人たちへのフォローもしてるんだよな、会長は。
さすがは、会長職を務めながら、A級に在位し続ける化け物の一人だ。
「お、こりゃ決まったな」
画面の向こう側の盤面は、すでに最後の終局図を整えるための形づくりに入っていた。
そして、暫定2位が手を駒台にかざして、終局の時を迎える。
『稲田八段。名人戦挑戦権獲得』
とのテロップが、中継画面の上部に映し出される。
(ピピピッ♪)
ついにここまで来た喜びを嚙みしめるのも束の間、スマホから着信音が鳴る。
「ゔぇぇぇぇぇぇん! ししょ……オメデト……ホント……ヴエ……」
スマホの向こう側から、嗚咽交じりの祝福の言葉が届けられる。
「桃花、今、午前2時だぞ。いくらなんでも起きてるのには遅すぎる時間だぞ」
「じじょぉぉぉぉ! オメデトォォォ!」
駄目だ。桃花は号泣し過ぎて、こっちの声なんて聞こえちゃいないようだ。
「ありがとな。桃花」
お前がいたから、俺はこんな所まで来れたんだよ。
まだ、俺は弟子のお前に背中を見せられる。
その事がなにより、俺は嬉しいんだ。
照れくさくて、面と向かっては言えないけどな。
「早く寝ろよ」
そう言って俺はスマホを切ると、控室からこちらに移動してきた記者のカメラから焚かれるフラッシュのまばゆい閃光へ向き直った。
桃花の師匠としてではない。
自分の力だけで辿り着いた光の世界で、俺はいつもより堂々としていられた気がした。




