第79局 俺も経験なんてないよ
本作は全年齢版です。
「ん……師匠、ちょっと重い」
「そういうもんだから我慢しろ桃花」
女の子が、ましてやまだ身体が成熟しきっていない桃花に覆いかぶさる重さとしては、ちょっとキツイかもしれない。
けれど、こればっかりは我慢してもらうしかない。
「ちょっと……これマジでヤバいですって。いや、予想以上に気持ちいいものなんですけど、こんな感じなんですか⁉」
「俺だって経験ないんだから知らないよ」
「え……師匠も初めてなんですか?」
「あ……」
熱に浮かされた頭だから、ついズルッと本音が出てしまった。
「ああ、そうだよ。師匠面して偉そうなこと言ってたけど、俺も経験なんて無いよ」
俺は、自分の脇の甘さを恥じた。
初めての桃花も、俺以上に緊張しているんだから、せめて師匠として虚勢を張ってリードしなきゃと思っていたのに。
「嬉しい……師匠も初めてだったんだ。じゃあ、こうやって枕を並べて一緒に寝るのも初めて?」
「そりゃそうだろ」
解り切ったこと聞くなよ。
そんな嬉しそうな声で。
「初めての相手が弟子ってどうなの師匠?」
「……どうって俺だって安心かな、桃花と一緒だから」
いたずらっぽく聞く桃花の答えに、俺の方も普段のようにツッコミを入れるでもなく、素直な答えを返す。
「まさか、私たちの初めてが、こんなに多くの人に観られながらなんてね」
「テレビでも流れるだろうな」
自分で言うのも何だけど、師匠と弟子との組み合わせは珍しいだろうからな。
「ん……そろそろ私、本当に限界かも」
桃花の呼吸が荒く、短くなっているのが解る。
上気し、火照った顔からは、その時がすぐそこまで迫っていることを意味していた。
「ああ……実は俺ももう限界……」
俺もまた、桃花と同じような顔をしているのだろう。
始まる前には、俺がリードしようなんて思っていたけど、いざ事が始まったらそんな事はどうでもよくなっていた。
ただ、目の前に集中するしかできない。
「じゃあ、最後も師匠と一緒がいいです」
潤んだ瞳で桃花が哀願する。
「ああ。俺も一緒だぞ桃花」
桃花の想いを遂げるため、また俺の想いを遂げる瞬間が訪れる。
「「限界です! もう出ます!」」
俺と桃花は、そう言って同時に身体に積まれた熱い砂の山から起き上がった。
「はい。指宿名物の砂風呂師弟対決は、引き分けで~す!」
周りにいた宿の従業員さんや、同行していた取材陣が拍手を送ってくれる。
「砂風呂って初めて入ったけど熱いですね。すぐに汗がブワッと出てきました」
「砂の重さを感じるからサウナよりきついな」
着ている浴衣の砂を大まかに払いながら、開口一番の感想を同行の記者たちに述べる。
「始まる前は、飛龍覇王より長く砂風呂に入っているんだと言っていましたが、結果は引き分けでしたね稲田八段」
「砂風呂は10分から15分が目安らしいから、何事も適度が一番ってもんだよ」
浴衣の中にまでもぐりこんだ砂を落としながら、俺は馴染みの記者のキョウちゃんの意地悪な質問に飄々とした感じで答える。
砂風呂は浴衣姿のままで、地熱で温められた砂の山に埋められるので、砂が体中に入っている。
「覇王戦がまたしてもストレートでの奪取という結果となったため、対局場としては使われなかった鹿児島県指宿温泉旅館ですが、こちらの印象はいかがでしょうか? 飛龍覇王」
「あの……その飛龍覇王って呼び方止めません? 何だか字面で見ると、一子相伝の拳法を伝授された人みたいなんですけど」
記者からの問いかけに、桃花が不満を述べる。
「これは覇王戦の一環のイベントだから、呼び方については諦めろ覇王」
「師匠ったら、家でもふざけて私のこと、覇王って呼ぶんですよ。『覇王、ご飯できたぞ~』とか『覇王、宿題ちゃんとやったのか~』って」
桃花の小ネタにドッと記者たちが笑った。
桃花は現在、覇王位を奪取してタイトル七冠となった。
一般的なニュースでは『飛龍七冠』と呼称されることも多いが、覇王呼びをするメディアも見受けられる。
覇王は名人と同格の別格上位のタイトルだという事もさることながら、『女子高生覇王』という、通常はくっつくことのない名詞同士の組み合わせが、ミスマッチで面白いからかもしれない。
これも18歳という史上最年少記録で覇王位を獲得し、名実ともに棋界序列1位となったが故だ。
「相変わらず仲が良い師弟ですね。そういえば、飛龍覇王も18歳で成人の年齢になりましたね。結婚のご予定はあるんですか?」
「ぶっ!」
キョウちゃんの奴、急にぶっこんできやがった。
「ファンの間では、高校卒業後に成婚されるなんて説も実しやかに流れてますが?」
「その点、いかがですか? 稲田八段?」
マスコミの皆さん。なんで、桃花の結婚のことで俺にマイクを向けてくるんですかね?
「俺は知りません。結婚は当人同士の意志で決めるものですから」
俺は、当たりさわりのない、政治家の答弁のような一般論で質問をかわす。
「師匠はこう仰ってますが、飛龍覇王はいかがですか?」
「皆さんのご想像にお任せします♪ 暖かく2人の仲を見守ってくれたらありがたいです」
「何だその、熱愛が報じられたタレントみたいなコメントは」
「じゃあ、師匠シャワー浴びよ。たくさん汗かいた後にシャワーで洗いっこって、私たちでも初めてだね」
「いかがわしい言い方すんな!」
浴場に入る前に砂を落とすための共同シャワーを、情事の後のシャワーみたいに言うなっての。
しかし、砂に埋まってたわけだから、浴衣の中まで砂が入り込んでるな。
「ハァハァ……ほら、師匠の浴衣の帯が解けそう。これって、浴衣の中までお前が洗えってサインですよね? まったく、弟子づかいの荒い俺様師匠なんですから」
「変な解釈して人の浴衣の中に手を突っ込んでくるな! そういう所は自分で洗うから!」
シャワーの場所には流石に記者たちも入って来ていないが、壁のすぐ向こうに居るんだから、危ない行動は慎め。
俺は、慌ててシャワーで砂を落とすと、すぐに男性浴場の方へ戻って行った。
◇◇◇◆◇◇◇
「ふはぁ……まだ砂風呂の熱気が残ってる感じですね」
「ほら桃花、アイスキャンディー」
「ありがとう師匠。さすが私の事よく解ってますね」
「湯上りにはこれだよな」
ようやくイベントごとや取材も終わり、師弟で旅館の部屋でゆったり出来る時間になり、桃花は例によって俺の方の部屋へ遊びに来ていた。
「ふぅ、暑い」
「暑いんなら、くっつくなよ」
「いやです~」
今度はくつろぐための浴衣姿の桃花が、背中合わせで畳の上に座りながらアイスキャンディーをペロペロ舐めだす。
俺も諦めて、口の中でアイスキャンディーを溶かす。
甘さと水分が口の中に広がり、火照った身体を冷ましてくれる。
「師匠、一緒に来てくれてありがとうございます」
「ん? 先方から是非に師弟一緒にという要望なんだから、応えない訳にはいかないだろ」
「今は12月で、保育士試験も順位戦も佳境じゃないですか」
「別に、今日だけで結果がどうこう変わる準備はしてないさ」
食べ終わった後のアイスキャンディーの棒をゴミ箱へ放り投げると、見事にシュートが決まる。
もう食べ終わったのだから離れればいいのだが、冬場にアイスキャンディーを食べた寒さもあり、背中越しの桃花の温もりが心地よくて、何となくそのまま背中合わせのまま座り続ける。
「師匠。私、覇王になりましたよ」
「そうだな。弟子が覇王になったなんて、一生自慢できる」
「あと1つです師匠。約束、忘れてませんよね?」
「ああ」
ここで、背中越しの桃花がわずかに身体を震わせる。
「……あんなの子供の頃の他愛無い約束だろって逃げたりしないんですね」
「お前の師匠は、そんな情けない奴か?」
「いえ……でも、いよいよ現実味を帯びてきたから」
「なんだ、怖いのか?」
意外だな。
最早、誰も止める者の無い比類なき天才たる、桃花覇王が怖がるなんて。
「10歳の頃からの夢にもうすぐ手が届くんですから、不思議な気分なんです」
今はまだ12月で、現在順位戦B1に所属する桃花にはまだA級へ上がるという関門がある訳だが、最早今の桃花がそこを取りこぼす姿は、師匠の俺でも想像できない。
来期に、桃花は間違いなく、名人への挑戦権をかけたA級へ昇格するだろう。
「桃花が俺に弟子入りして8年か。長かったようであっという間だったな」
背中越しに感じる感触も、随分様変わりした。
「そうですよ師匠。私、もう18歳です」
「そうだな」
「自分で自分の選択に責任を持てる歳になりました」
「法律上そうなるな」
「ムードのない言い方ですね師匠」
ゆさっと、背中越しに桃花が体重をかけて抗議してくる。
「何だよムードって」
「男女としてのです」
ここで、桃花はグイッと背中を伸ばして更に俺に体重のほとんどを掛けてくる。
「重い」
「私はこうやって師匠に支えられて大きくなりました」
「伸び伸び育ったな」
「だから、次は私が師匠にお返しする番です」
桃花から師匠の俺へのお返し。
それは、名人位を獲得したら棋士を辞めると宣言している事と繋がった話なのだろうか。
ただ、この部分に関してだけは、桃花は頑としてその真意を話そうとはしない。
「弟子が幸せでいてくれれば、師匠への恩返しは十分だよ。後は、そうだな。桃花が弟子を取って孫弟子が出来たら、師匠としては最高かな」
「え~、私はいつまでも師匠を独り占めしたいから嫌です」
背中越しにグイグイ押してきて、桃花が抗議する。
「そう言うな。弟子がいるってのは良いもんだぞ」
「ずるい……そう師匠に言われちゃ、弟子の私は反論できないじゃないですか」
背中越しに桃花がションボリしたのが解る。
見えていなくても、言葉にしなくても伝わる。
思えば、俺にとっても貴重な相手なんだよな。桃花は。
「ま、考えてみるといい」
「師匠は、私の他に弟子は取らないんですか?」
「ひっきりなしに、弟子入りの依頼は来てるよ。けど、手のかかる弟子がいるから、他はお断りしてるんだ」
「へへへ。じゃあ、師匠にとって最初で最後で唯一の弟子が私なんだ」
「いや、歳取ったらまた弟子取るかもな」
「は? 若い娘と浮気なんて許しませんよ私は」
「じゃあ、俺への弟子入り希望は、唯一の弟子に丸投げだな。いや~、孫弟子にお年玉を渡すのが楽しみだ。じゃあ、遅いからもう寝な」
そう言って、俺は桃花から離れた。
「はい。お休みなさい師匠」
本当は、桃花がもし棋士を引退してしまったら弟子は取れなくなる。
最後の言葉は言外に回りくどく、名人になっても将棋辞めるなよという師匠から弟子へのメッセージだった。
その裏に込めた真意が解ったのか、桃花も、『まだ夜更かししたい』、『おしゃべりしたい』と駄々をこねずに俺の言葉に素直に従った。
決して、名人になったら将棋を辞める事は翻意せずに。




