第78局 覇王墜ちる
【羽瀬王毅_視点】
「ああ、この痛みがそうなのか……」
私は、己の負けを悟った時にチクッと胸に刺さる痛みに、自分がその痛みを感じたことに自分で驚いていた。
やはり、長く馴染んだタイトルというものを失う時と言うのは、身体の一部ごと剥ぎ取られる格別な痛みを伴うものなのか。
「口ではバトンタッチ等と言いながら、情けない限りですね」
自嘲気味な笑みが思わずこぼれてしまう。
おっと、今は対局の、それも覇王戦タイトル戦の真っ最中でした。
中継のカメラには、今の笑みが抜かれてしまったかもしれませんが、最も悟られたくない相手は、現在長考に沈んで盤上を食い入るように見つめているので一安心です。
ほとんど瞬きをせずに、長く美しい黒髪が垂れるのも構わずに盤面に没我する挑戦者の桃花先生は、最近はすっかり大人っぽい女性となった。
彼女が中学生棋士で少女であった頃から研究会で盤を挟んで幾度となく相対した身としては、こうしてタイトル戦で戦えるのは、勝負の場としてはそぐわない、嬉しいという感情がどうしても沸き起こってしまう。
私は嬉しかったのだ。
自分に引導を渡してくれる人が、ようやく現れてくれたことが。
ただズルズルと加齢による棋力の衰えにより徐々に消えゆくのではなく、派手に散ることができるセレモニーが用意された引き際が自分に与えられたことが。
そんな、私にとっての祝福の女神でもあり、破壊神でもある少女を見やる。
敗勢側の私には、もはや相手が奇跡的にゴール前で転んでくれるという奇跡を祈る程度しか出来る事が無い。
それに対し、優勢側は相手の玉を寄せ切れるか、何か見落としは無いかと、最後の最後まで何十回と頭の中で詰めまでの手順を繰り返す。
私が思考を盤上以外に向けられる余裕があるのは、ひとえに敗者であるからだ。
勝者は最期の瞬間まで気を抜けない。
こうしてみると、何とも重労働だなと他人事のように思える。
(パチリッ)
渇き切った空気に水が差すような白刃の一手が現れる。
「ああ、ようやく自分もこちら側に来れたのだな」と実感できる。
勝者とそれ以外。
見上げられる人がいることの幸運に私は感謝した。
「負けました」
この瞬間、18歳の覇王が誕生した。
覇王と名人は同格で、あとは他のタイトルの保持数により序列が決まる。
覇王を含めて七冠となった桃花覇王は、最年少で棋界の序列1位となった。
ずっと守って来た覇王位を失った喪失感と、新たな棋界のトップが誕生した瞬間の歓喜が同時に自分の胸の中をうごめいていた。
◇◇◇◆◇◇◇
「おう、お疲れ羽瀬。どうよ、失冠の痛みは?」
「毎回嬉しそうに聞きますね北野会長」
終局後に行われる打上げには不参加と言ったのだが、北野会長はズケズケと私の部屋に酒瓶を片手に上がり込んできていた。
「当たり前だろ。この瞬間をどれだけ待ち望んだか」
「連盟の会長として、私怨を混ぜ込むのはいかがなものかと思いますが」
とてもタイトル戦で敗戦して失冠した直後の相手に向ける言葉ではない。
ましてや、将棋連盟の会長という役職に就く人が。
「お前には、俺の大事な覇王位を奪われた恨みがあるからな。あの時は、お前が上がってくる前年に永世覇王の資格をギリギリで獲得できてて、本当に良かったわ」
当時を懐かしむように北野会長は酒杯をあおる。
「私は19歳で北野会長から覇王位を奪ってから、今日まで一度も奪取されませんでしたから、永世資格はいつの間にか達成してましたね」
「お前のその減らず口は相変わらずだな。歳はもうオッサンになった癖によ」
昔話をするのは、オッサンの特権だ。
と、言おうとしたが、私ももう世間的にすっかりそちら側の年齢の人間なので言わないでおいた。
「どうだ? 序列一位から落ちた感想は」
「この日が来るのは、ずっと前から覚悟していましたから。会長のお望み通りになって良かったですね」
「本当だぜ。下手したら、お前が無冠になる姿を拝めずに、先に俺がお陀仏になるかと思ってたわ」
「これでいつでも思い残せず、逝けますね」
「いやいや、旨い酒の肴が出来たから当分長生きできるわな」
私の嫌味に、北野会長は強烈な毒で返す。
人の失冠の痛みを酒の肴にするとは、この人には会長云々というより、人としての品格が欠けているのでは?
「これで思い残すことはねぇ。という訳で、羽瀬。次の将棋連盟の会長はお前がやれ」
「私は……」
「おっと、お前に拒否権はねぇぞ。永世八冠持ちのお前以上の適任者がいるわけないだろ」
奇襲による要求を固辞しようとしたが、即座に遮られる。
「私はそもそも理事ですらないですが?」
「ちょうど、病気で2年の任期途中だが理事の職を降りたいという内々の打診が来ててな。理事の補欠投票をやるから立候補しろ。で、1年理事を勤めたら、次の期の投票でお前が会長だ」
「立候補って言葉の意味を知ってますか? 会長」
「お前が立候補したらそのまま会長へのレールは敷かれてるも同然だ。ファンも世論も羽瀬会長が見たいから、理事は世論からの反発が怖くて全員一致だろうさ」
駄目だこの人、会話になってない。
明らかに飲み過ぎだ。
「なぜ今、私が会長なのです?」
「新たな責任を背負った方が失冠の痛みを和らげるからだよ」
「…………」
北野会長の言葉に、思わず二の句を告げられずに黙りこくってしまった。
誰よりも、今私の感じている痛みを理解する会長からの言葉は重かったからだ。
「このまま半隠居でもするつもりだったか? 残念だったな」
そう言って、北野会長は酒瓶を抱えて立ち上がった。
かつて、私が自身の手で息の根を止めた、少年だった頃の憧れのヒーローの背中は、今でも大きく見えた。




