第77局 師匠がネトラレた……
『わー、綺麗な魚ですね。どこの国に生息してるんだろう?』
『カメって、私はじめて間近で観たかもしれません』
『そうなんですか?』
『はい。初体験です』
『あ、よく考えたら私も初めてかもしれません。水族館って、子供の頃に遠足で行ったきりかも』
『師匠も初めてなんだ。 じゃあ、今日は初体験記念日だ』
春休みも終わった平日の水族館は、客もまばらで、心なしか水槽の中の魚たちも気楽に泳いでいるように見える。
吹き抜けの壁一面がガラス張りの大きな水槽に、色とりどりの魚やマンタ、果てはサメまで一緒の水槽で泳いでいるのは驚きだ。
照明も薄暗く静かな館内は、まるで海の中に自分たちもいるように感じられた。
「うう……師匠が……私の師匠が男たちに寝取られた……」
「訳の分からんこと言うな。ほれティッシュ」
番組を観ながらハラハラと涙を流す桃花に、ティッシュを箱ごと渡してやる。
「だって! 私、師匠と水族館行ったことない! しかも、ここ横浜の有名な水族館だし。こんなの浮気旅行ビデオレターじゃないですか!」
「おっさん同士で旅行してるだけだろうが」
「ミジンコトーナメントって、対局以外にも、チームみんなで旅とかしたりするんだね」
「何かバラエティ番組みたいですよね」
今日は、ミジンコトーナメントのチーム紹介と、親睦を深めている様子が配信されているので、家で桃花と姉弟子とで一緒に観ていたのだ。
「私が、どんな気持ちで師匠を家から見送ったと思うんです……ヨヨヨ……」
「お前もチームでお出かけしてただろ」
「シュラスコの食べ放題美味しかったです。チームメイトの右京先生は赤ワインのボトルをスコスコ開けてました」
チーム飛龍は、食べ放題飲み放題のツアーだったようだ。
主催者もキャラがよく解ってるな。
「同期の棚橋くんが一番最初にギブアップしてたね」
「相手が悪い。無限胃袋と無限うわばみじゃな」
桃花のチームメイトは、同じ女性棋士の右京先生と、桃花の同期の棚橋くんだ。
なお、ドラフト会議で俺のクジを外してからの記憶が桃花には無いらしい。
どんだけショックだったんだ。
「マコは最近は折原先生とよくつるんでるよね」
「羽瀬先生が、二巡目指名の時に、俺に選ばせてくれたんですよ。誰でもいいからと」
「ちなみに、私が師匠を指名した後のメンバーも、折原先生にしようと思ってました。師匠を際立たせてくれる人材は得難いです」
みんなの安牌みたいに扱われているが、折原先生だって、棋叡一期のタイトル経験者の若手ホープなんだがな。
キャラが選定理由と言うのも、お祭りトーナメントならではなのだろうか。
「さて、動画は観たし勉強するか」
モニターを消して保育士試験用の通信教育テキストと筆記用具を机上に取り出す。
「師匠、真面目~」
ソファに寝そべりながら、桃花がこちらを見てくる。
「保育士試験は、春は無理だが秋の試験は受けられそうだからな」
保育士試験は年に2回実施される。
そして、今年の秋には保育補助者としての実務経験時間数が試験の受験要件をクリアできる見込みなのだ。
とは言え、本業の将棋も当然疎かに出来ないので、早めに試験勉強に取り掛かり始めたのだ。
「桃花も高校三年生になったんだから、もちっと勉強頑張ったらどうだ? 今は夏休みで、受験する子は必死に勉強してるだろ」
「ん~、勉強は今はいいかな。直前に頑張れば、まぁ大丈夫だろうし」
「お前の場合、それが本当に可能な脳みそのスペックだからな」
俺は勉強方面はそこそこで、これまた天才ではないという中途半端な感じで、勉強も将棋もコツコツ型なのだ。
「そう言えば、桃花は高校を卒業したらどうするんだ? 今の口ぶりだと受験はするのか?」
「ん~、内緒。それより、今の私の頭の中は覇王戦でいっぱいだから」
そう言うと、途端に六冠たる棋士の顔つきになる桃花。
その顔は、闘志がみなぎっていた。
「まぁ、お前の場合は進路は自分の思うようにすればいいが」
「私の進路は、昔も今も師匠のお嫁さんですから」
「はいはい。お互い頑張ろうな」
最近は、お決まりの取りも軽くあしらう感じに変わって来た。
「師匠は今年も調子いいですね。A級でも現在全勝発進で」
「まだ4分の1しか終わってないがな」
「相変わらず、他のタイトル戦の予選では途中で転ぶけど、順位戦は本当強いですよね」
「それを言うな」
純粋に棋力が上がっているので、名人戦以外のタイトル戦の予選でも結構良い所までは行くのだが、何故か挑戦者決定戦の直前で転ぶことが続いているのだ。
「私も六冠になって、防衛戦以外は覇王戦のランキング戦と順位戦のみで、夏はヒマなんですよね」
「受験生にも棋士にも刺されそうなマリー・アントワネット発言だね~」
桃花は、すでにタイトル戦の予選と呼べる物にほぼ出る機会が無くなってしまった。
強いが故に対局の機会が減り、戦う相手も強敵ばかりになる。
それでも、桃花が勝つ。
18歳という、本来はまだまだ若く伸びしろしかない年齢。
はっきり言って、手が付けられない状態だった。
「私も暇だから勉強しようかな~。師匠、数学のサイコロの目の確率問題で解らない所があって」
桃花が、俺の横に何やら大学の過去問っぽい数学の記述問題を広げだした。
問題文をパッと見ただけで、全く歯が立たない事だけは解った。
「……俺、自分の勉強中だから姉弟子に聞いて」
「何でそこで私に振るの⁉ 桃花ちゃんに解らないレベルの問題がアラサーの私が解ける訳ないでしょ!」
中学や高校の基礎レベルの勉強位まではギリギリ教えられたんだがな。
大学受験レベルになると、さすがに勉強を見てやるのも、もう無理だわ。
所詮、受験勉強なんて、その後の生活には直接は役に立たないということを大人が露呈させつつ、桃花の高校最後の夏休みは過ぎていくのであった。




