第75局 格付けはもう済んだ
「ふむ……ここで、そう来ますか」
「なんだか縁側将棋みたいなセリフですね」
俺は盤を挟んで、思わずつぶやいた相手に苦笑した。
とは言え、相手は近所に住む将棋を嗜む同好の士でも、好々爺でもなく、覇王・名人その人なのだが。
「たまにはこうして、雑談しながら気楽に指すのも悪くないですね」
「しかし、桃花はB2の順位戦最終対局があるので今日は1日不在ですよ。何か、桃花には聞かせられない話なんですか?」
俺は、少し緊張しながら羽瀬先生に尋ねた。
昼下がりに突然、事前のアポなく羽瀬先生が自宅を訪れたのだ。
とりあえず一局と言うので、黙って盤に向き合ったわけだが、そろそろ今日の突然の来訪の意図を聞きたいところだった。
「いえ、何も意図はないですよ。ちょっと名古屋の方で用事があったもので、ちょっとした時間つぶしに立ち寄ったまでです」
「……人の家を将棋カフェ代わりに使わないでくださいよ」
「対局もないし、今日は保育園のシフトではないと聞いていたので、真面目な稲田先生は自宅で研究されてると思ってましたから」
何とも正確な読みだ。
けど、あれ?
「俺の保育園でのシフトなんて話してましたっけ?」
「……ええ。それより、稲田先生。最終日待たずの順位戦A級への昇級と八段昇段おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ちなみに、今B2の順位戦最終局を戦っている桃花も、すでに来期B1への昇級を確定させている。
「智将のタイトルも奪取して飛龍六冠となり、稲田研究会に明るいニュースが続きますね」
「いや、明るいニュースって……羽瀬先生は桃花にタイトルを奪われてるじゃないですか」
「この稲田研究会の中でのタイトル総数は変わってませんから良いんですよ」
この間の合コンでの王棋失冠時の自虐ギャグといい、この人の自虐ジョークは笑えないんだよ。
もっと、自分の立場というものを弁えて欲しい。
「結局、智将戦は桃花の四連勝で終わったので、羽瀬先生だけ勝者の罰ゲームをやらなくてズルいって怒ってましたよ」
「ハハハッ。誰も中年のコスプレなんて見たくないでしょ。そういう意味では、智将位を桃花先生に渡せて安堵しています」
「だから、そういう危ない発言をしないでください。無気力対局や八百長を疑われますよ」
「私も、四六時中、覇王・名人でいると肩がこるので、こういう本音を吐き出す場所が必要なんですよ」
そう笑いつつ、傍らに置かれたコーヒーカップに口をつける。
「本音ついでに、もう一つ稲田先生には伝えておきましょうか。ちょうど桃花先生も居ませんし」
「なんですか?」
特に桃花のいない時間に我が家に来た意図はないと言っておきながら、やはり何かあるんじゃないかと思っていた俺は、話に聞き入るために座りなおす。
「智将戦を、私は全力で一切の忖度などなしに桃花先生にぶつかって行きました」
「それは無論解ってます」
先ほどは冗談交じりに、智将戦の勝者の罰ゲームをやらずに済んで清々したみたいなことを言っていたが、棋士が、ましてや覇王・名人たる羽瀬先生が、タイトル戦の場でそういった手心を加える訳がない。
そして、その将棋への高潔さが故に、結果は残酷な意味を持つ。
「その上でのストレート負けです。桃花先生と私の間での格付けは、すでに済んだと思われます」
「…………」
「覇王戦の頃までは、何とかフルセットまで行けましたし、振り駒の運にも助けられて覇王はギリギリ防衛出来ました。けど、おそらく来期は奪取されるでしょう」
羽瀬先生の淡々とした独白に、俺は言葉を発することが出来なかった。
タイトル戦では、基本的に交互に先手番、後手番が入れ替わる。
先手で自身の勝ちをキープして、どこの後手番で、相手の先手番対局時にブレイクするかというのが、タイトル戦での勝ち星の考え方だ。
それが、自身の先手番の勝ちすらキープすることが叶わなかったということは、相手と力の差があることの証左だ。
「やはり若い人の成長というのは著しいですね。粗削りな若さゆえの勢いに、精緻さが加わったら、そりゃ勝てませんよね。かつての私がそうやってタイトルを独占したように」
言葉を告げられない俺に、羽瀬覇王・名人は独白を続ける。
「ただ、不思議と晴れやかでもあるんです。これで、心置きなくバトンを渡すことができるのですから」
「バトン……」
「棋界を背負うという、重い重い責任です。思ったより早かったですね」
ヤバいな……。
感慨深そうな羽瀬先生を見て、俺は強烈な危機感に見舞われていた。
羽瀬先生は、完全に桃花という次世代に任せて、自分は半隠居でもしそうな物言いだ。
まだ、言ってもこの人も30代後半なんだから、半隠居なんて早いだろうに……。
どうする?
桃花が、名人位を奪取したら、そのまま棋士自体を引退しようと画策していることを、羽瀬先生にも言うか?
この秘め事を打ち明ければ、もしかしたら羽瀬先生は、そんな事はならぬと再度発奮してくれるかもしれない。
桃花の高い壁であり続けてくれるかもしれない。
俺の目論見が、もし見当違いだった時の備えはいくつあっても……
「あの……羽瀬先生……」
不安に圧し潰されそうになり、思わず誰かに縋りたい気持ちから声をかけてしまった。
「何です?」
「……いえ、何でもありません」
喉から出かけた秘密の暴露を、俺は寸でのところで飲み込んだ。
これは、俺と桃花の、師弟の間の問題だ。
だからこそ、師匠の俺が解決しなきゃいけない。
「それにしても、貴方も強くなりましたね。流石に雑談をしながらでは勝てなくなりましたか。私の投了です」
羽瀬先生は、半ば肩の荷を降ろしたおかげなのか、晴れやかな顔で投了する。
「私はいつでも、羽瀬先生に勝とうと思って指してますから」
「その成果がA級昇級という形で表れて良かったですね」
話も対局も終わったからか、羽瀬先生は盤の前から立ち上がると、コートを羽織り帰り支度をしている。
「羽瀬先生のおかげです」
「あなたがここまで食らいついてくるとは、本当に予想外でした。ビックリ度合で言えば、桃花先生の伸びる速さ以上です」
「俺の事、所詮はただのお茶くみか記録係要員だと思ってたんでしょ?」
「いえ。桃花先生と練習対局を指す上での、ただの厄介者だと思ってました」
「ひでぇ!」
そんな風に俺の事見てたの、この人⁉
そして、そのことを臆面もなく本人の俺に言い放つとか、やっぱりこの人はおかしい。
「そこから、あなたは一流の棋士になった。20代でのA級昇級は一般的に誇って良いですよ。桃花先生がいなければ、おそらくはタイトルも何期か縁があったでしょうに」
これ、褒めてるようで俺を貶してるよな。
お前の天井は、ここまでだと。
ただ、だからこそ伝えなくてはならない。
「たしかに、正直言って、俺に桃花とタイトル戦で対峙する未来なんて見えないですよ」
息を吐き、羽瀬先生からの格付けを受け入れる。
「だから、俺のタイトル獲得は貴方からしかないと思っています」
ここで、和やかな空気が一変した。
覇王・名人たる威容が、名古屋にある2LDKの俺のマンションの部屋の中をうごめく。
「ちょっと意味が解りませんね」
振り向いたプレッシャーの源泉の顔に笑みはなかった。
なんだこれ、怖すぎるだろ。
「来年の春。俺は貴方の前に座っているということです。名人戦の挑戦者として」
それでも、俺はブレずに言い切った。
A級棋士として、ようやく頂に手を伸ばす資格を得たのだから。
「そうですか。楽しみにしています。では、お邪魔しました」
フッと、ウソのようにプレッシャーが消えたかと思うと、羽瀬先生は玄関から出て行った。
玄関のドアが閉まり切ったところで、俺は大きく息を吐き出す。
背中にじっとりと汗がつたっているのを感じた。
「何が、バトンを渡すだよ。全然、闘志がみなぎってるじゃねぇか」
そう呟きつつ、俺は、自身の幼少期からの推しの棋士が、まだ一つも枯れていないことを少し嬉しくも思った。




