第72局 負けた弟子に師匠が出来る事
「はぁ……師匠。マジで、あの人化け物ですね」
桃花が、我が家のリビングのソファに寝そべりながら呟いた。
「何か食うか? 桃花」
「じゃあ、キノコの盛り合わせソテーを再利用した、きのこ醤油パスタを」
「冷蔵庫の総菜の残り物から、俺が作るメニューを当てられるくらいになったか弟子よ」
「恐縮です師匠」
ソファから起き上がって、キリッとした顔で、桃花が成長ぶりをアピールする。
「そこまで解ってて、何でお前が作らないんだ?」
「師匠が作ったご飯でないと、今の私の傷は回復しないからです」
キリッとさせていた姿勢は5秒くらいしかもたず、再び桃花はソファのふかふかに沈没する。
「またしても激闘だったな、覇王戦」
「くそ! あの化け物め……保育士さん合コンで腑抜けているかと思ったのに」
桃花が言う化け物と言うのは、言わずもがな、羽瀬覇王・名人のことだ。
そして、今シーズンの覇王戦が終局した現在、羽瀬先生を表わす肩書が覇王・名人のままであるという事は、同時にとある事象が表裏一体として発生していた。
「タイトル奪取、防衛成功の連続記録は9でストップか。残念だったな」
「何か、師匠ってば少し嬉しそうじゃないですか? 私が負けたのに」
寝そべったソファに片頬を埋めながら、桃花がジトッとした目を俺に向ける。
「いや、そんな訳ないだろ。でも、お前も人間だったんだなって思っただけさ」
俺は、きのこ醤油パスタを作るために、フライパンでベーコンを炒めつつ、残り物のキノコソテーをタッパーからフライパンへ投入した。
「私は、無傷で名人まで獲るつもりだったのに……」
「へぇ、羽瀬先生相手に、随分と大きく出てたな」
桃花がソファで丸くなって呟きに笑いながら、俺はトングでパスタの麺と具材を絡めて追加の麺つゆと後入れバターを投入する。
「今回も覇王戦はフルセットでした。羽瀬先生と私の星勘定は、本当にほぼ互角。わずかな差が、勝敗を分けます。下手したら、振り駒の結果がそのままタイトル奪取の成否を分けかねなかった」
「で、今回は、合コンに誘う盤外戦術でその差をつけようと考えた訳か」
「姑息な作戦のせいで、将棋の神様に見放されたんでしょうか……」
アンニュイな顔でため息をつく桃花の横顔を、何だか子供の頃と変わって大人っぽい表情もするようになったなと思いつつ眺めながら、俺は出来上がったパスタを皿に盛りつけた。
「ほら、出来たぞ」
「わ~い」
「お夜食の香りに誘われて」
ソファから桃花が起き上がると同時に、姉弟子の部屋の扉が狙いすましたようなタイミングで開く。
「姉弟子も夜食の時間に見計らったように出てきますね」
「良い匂いがしてたからね~」
餌に群がる池の鯉みたいに、桃花と姉弟子はきのこ醤油パスタを2人で取り合う。
「姉弟子は、今日も徹夜で?」
「徹夜しなきゃ、さすがにアラサーの身でお夜食食べちゃヤバいでしょ」
ナハハと笑いながら、姉弟子はパスタをすする。
「ケイちゃん、また記事の締切ヤバいの?」
「うん。今日中だけど大丈夫。11時59分には間に合わせる」」
「最近はライターの仕事が軌道に乗ったみたいで何よりですね」
「将棋の観戦記以外にも、世界を放浪してた時の旅行記とかも出版されるんでしょ?」
「そうそう。だからスケジュール管理が大変よ」
「ケイちゃん、スケジュールがきついなら、そろそろ私のタイトル戦の付き添いしんどい?」
桃花が少し寂しそうに姉弟子に尋ねる。
「タイトル戦くらいなら大丈夫よ。気にしなさんな。原稿仕事は、移動中にも出来るんだし。それに……」
食べ終わったパスタの小皿に箸を置き、姉弟子がニヤリと笑う。
「いずれ、『初の女性名人の素顔』ってタイトルで本書くための取材でもあるからね」
女性名人。
将棋界における女性初の記録を全て塗り替えてきた桃花が、最後に到達する頂上。
それはもはや絵空事ではなく、世間では、最早当然なしとげられるものであろうという展望が支配的だった。
「暴露本だったら縁切りますよ姉弟子」
「私だってプロなんだからその辺の分別はついてるよ。っていうか、変なの書かれたくないなら、マコがエッセイ書けばいいじゃん。出版依頼なんてごまんと来てるでしょ?」
「来てますけど、書いている暇がないです」
弟子の桃花との日々を書いてくれという執筆依頼は何社からもいただいているが、さすがに暇がないので全て断ってる。
「うちの親にも、子育てについての講演や本を出版しないかって依頼がしょっちゅう来てるみたいですが、全て断ってるみたいです。何でこんな風に育ったのか、親の自分たちにも解らないからって」
「まぁ再現性が無いからこそ天才って呼ばれるんだしね」
桃花も、温かいごく普通の両親と田舎の農家家庭で育ち、決して幼少期から英才教育がほどこされた訳ではない。
それこそ天が与えたものだという方が納得がいく。
「次は智将戦で、またしても羽瀬先生が相手か~」
「覇王戦のリベンジだな」
「2日制の対局ですから、師匠、また例の物お願いします」
「勝手に洗濯物からちょろまかされると困るから渡しているのであって、俺の中で抵抗感が消えてる訳じゃないからな!」
2日制のタイトル戦時に、俺のタオルを持ち出すことは最早、桃花の中で必然となってしまっていた。
王棋戦タイトル戦の頃は、タオルをめぐる攻防が師匠と弟子の間であり、新品のタオルとすり替えて持ち出すという桃花の執着の強さに根負けして、俺も諦めてタオルを差し出すようになったのだ。
「師匠のタオルを顔に掛けて寝ると、一晩グッスリ眠れるんです。仲居さんが起こしに来た時に、死んでるのかと思われて悲鳴上げられましたけど」
そりゃそうだ。
おまけに、その顔にかけているタオルが、師匠の使いふるした物であるとは、仲居さんも思うまい。
「もうちょっと可愛く、ぬいぐるみとかじゃダメなのか?」
「師匠が四六時中ぬいぐるみを抱いて、師匠臭を染み込ませてくれるならいいですよ」
「さすがに、いい歳した成人男性がぬいぐるみを抱っこしてる絵面がきつすぎるから却下だ。っていうか、師匠臭って単語は何だ。ねぇよ、そんな日本語」
「師匠臭のリラクゼーション効果やばいんですってば! あれは、絶対ヤバいお薬と同じ成分入ってますから。何とか製品化できないかなぁ」
「よそ様にこの事は絶対言うなよ! あと、桃花。お前、王棋戦の副賞を高級今治バスタオルにしただろ」
「ええ。日頃、お世話になってる師匠に是非使ってもらいたいなって思って。ジュルリ」
欲望が隠せてねぇ!
大き目なバスタオルサイズで何するつもりだ⁉
「この話は、さすがに実録エッセイにも書けないかな~」
またも勃発した師匠と弟子のタオルを巡る攻防を、姉弟子が苦笑いしながら眺めていた。
次話は智将戦。
将棋ファンはみんな大好き、勝者のアレ回です。
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