第67局 泥仕合の決着
「時間は?」
「午前3時です」
「これ、明日の……っていうか、もう夜が明けて今日か。この対局の結果、新聞の朝刊に完全に間に合わないだろ」
「でしょうね」
俺と折原先生は、ヨレヨレになりながら大盤会場で解説を続けていた。
2人とも、背広は脱いでワイシャツの袖をまくっている。
500手持将棋指し直し対局となったのも、既に終盤戦に入っていた。
ネット中継の放映が切れるなら解説も止めようかとなったが、ネット放送局様のご厚意により、生中継は続行されていた。
「スポンサーのネット放送局様の英断だから、お前らしっかりやり遂げろよ」
と舞台袖で束の間の休憩をしていた時に会長に言われて、俺と折原先生は絶望した。
ちなみに、その会長はと言うと、どこかへ行ってしまっていて姿が見えない。
あのオッサン、きっとどこか適当な部屋で寝てやがるな畜生。
「敗着は、やはり10手前の手かね。らしくない痛恨の緩手だった」
「やはり人間ですからね。身体の疲労は頭を鈍らせ、判断を誤らせる。」
500手持将棋からの先後の入れ替わりによる指し直し局。
ボクシングで言えば、フルラウンドを戦い抜いたボクサーに、決着がつかなかったから、もう一度リングに上がれと言うような物だ。
人間は、電気さえあれば、ミスなく答えを導き出し続けるAIでは無い。
仕留めきれなかった落胆という精神的ダメージは、どうしても残り、脳の疲労を色濃くし、手を誤らせる。
そして、その疲労を端から織り込み済みだったか否かという点も、棋力が拮抗している者同士なら尚のこと、結果の差異として現れる。
「しかし、1日目からずっと優勢だったのに、最後の最後で優勢を手放して、一気に持って行かれちまうとはな。こりゃ、やられた方は悔しくて今夜寝れないな」
「俺たちは、すぐにぶっ倒れて寝たいですけどね」
「だな。解説のこっちもヘトヘトだよ」
背広を脱いで、ネクタイを緩めてワイシャツを腕まくりしている折原先生の目の下にはクマが出来ていた。
「皆さん! そろそろ決着です! 起きれる人は起きて、最後の瞬間を見届けてください!」
俺は、大盤会場に残った、終電を見送ったか或いは折角宿泊する部屋を取ったのに棒に振った、筋金入りのファンの観客に呼びかける。
モソモソと、何人かが意識を覚醒させて、目をゴシゴシとこすって、何とか意識を回復させるよう努める。
「今回の勝者側の要因はなんだったと思う?」
「やはり事前の準備でしょうね。前日の昼食でバカみたいな量を食べていたのは、最初からこの泥仕合をするつもりで、兵糧を貯め込んでいたんでしょう」
「ははっ! メシが将棋の勝敗を分けるなんて、将棋メシもバカに出来ないな」
「後は負けず嫌いな所ですかね。2日制タイトルは体力勝負です。初めて一緒に研究会をした時に羽瀬王棋が仰ってたんですが、体力をつけなさいと桃花にアドバイスしていたんですよ。男女差で、そこはどうしてもウィークポイントになるからと」
「で、『そんな事ないでしょ?』って、直接対局で見せつけたかった訳か、飛龍四冠は」
「ええ。本当に、将棋に関してはえげつないことをする、性格の悪い弟子ですよ」
俺が苦笑気味に話したところで、画面の中で動きがあった。
立会人が入室してきて席に着く。
そして、桃花が着物をたすき掛けしていた紐を解き、着物を整える。
桃花の動きに合わせるように、羽瀬王棋も肩までまくっていた着物の袖を下ろして、羽織を羽織った。
長時間の激闘も、いよいよ終わる。
「負けました」
攻めて、攻めて、攻めさせられ続け、駒がこんもりと載った駒台に手をかざした羽瀬王棋が、かすれた声で投了を宣言した。
「ありがとうございました」
一方、激闘の果てでも、勝者の桃花の背筋はピンと伸びていた。
◇◇◇◆◇◇◇
「師匠、勝ったよぉ~♪」
ピョンピョン跳ねながら、桃花が俺の胸に飛び込んできた。
普段なら、人前でくっついてくるなとすぐに引きはがすところだが、今の俺にはその気力もない。
「ほら……着物にシワがつくぞ」
「シワならもうついてる。あ、何か今のヤラシい響きだね師匠。白玲呉服店に着物のクリーニングをお願いする時に、女将に私と師匠が、この着物で何かシワが付くようなことしちゃったのかって誤解されちゃうかな?」
着物がシワになってるのは、たすき掛けしてたからだろ!
とツッコむ元気も無い。
「お腹空いた~! 一緒に朝ご飯食べましょう、師匠」
「お前凄いな……完徹なのに朝食食べれるんだ」
完徹でエネルギーは枯渇しているはずだが、食欲以上に睡眠欲の方が強い。
「昨日は、一人ぼっちの朝食で寂しかったんですもん」
ムンッ! と口を引き結んで、桃花がガッチリ俺の腕を掴んで離さない。
これは、意地でも朝食会場に連れて行く気満々だ。
「じゃあ、師匠お疲れ。俺はチェックアウトギリギリまで仮眠するわ」
「俺もそうしたいんですけど……あ、折原先生も一緒に朝食どうです?」
「師弟水入らずに水差したくないから。じゃあな、お疲れ」
折原先生は、腕にへばりついている桃花をチラリと見てニヤニヤして、自分の部屋へ戻って行った。
くそ、死なば道連れと思ったが、あえなく振り切られてしまった。
「おう、お疲れ桃花ちゃん。稲田君も夜通しの解説ご苦労さん」
「……会長。よだれのあとが付いてますよ」
「うおっと、しまったしまった。この後、マスコミからのインタビューもあるから、ちゃんとしとかにゃいかんな」
俺に指摘されて、慌てて口元を拭う。
「人には徹夜を命じておいて、やっぱり自分は寝てたんですね。トップとして如何なものかと」
「もう俺もジジィ側の年齢なんだから、徹夜なんてしたら1週間は引きずるんだから、勘弁してくれよ」
別に俺も本気で会長に苦情を言っているわけではなく、ただの八つ当たりに近い。
徹夜明けのテンションというのもあって、遠慮が無いのかも。
だから、会長も軽口で許せ許せと冗談めかして俺の苦情を流す。
「名古屋組のお前らは、羽瀬と違ってチェックアウトまで部屋で寝てるか?」
「その前に朝食だそうです。って羽瀬先生は?」
「さっさと着替えて、荷物まとめてタクシーで帰っちまったよ。都内だからタクシーで寝て帰って、すぐ家で今日の振り返りしたいんだと」
「あんな激闘の後だっていうのに、流石というか何というか……」
「いや、あれは相当悔しかったんだと思うぞ。次局はどうなるか見ものだな」
北野会長が、興行的にはフルセットまで行って欲しいもんだと笑う。
「師匠、6時です! 朝食会場が開く時間だから行きましょう!」
いや、こんなの毎局やってたら、解説やる人いなくなるぞと思いながら、俺は桃花に腕を引っ張られて朝食会場へ連行されていった。




