第66局 性格の悪い弟子
「妙に静かだな」
王棋戦第1局2日目の朝。
俺は、対局場のホテルの朝食バイキング会場でそう呟いた。
何やかんや弟子に甘い師匠の俺は、結構な数の泊りの対局で桃花に帯同してきたわけだが、今日は騒がしいのが隣に居ない。
普段は、『師匠、この干物美味しいよ! 目の前で板前さんが網で焼いてくれるの!』とか、『朝からローストビーフ~♪』とはしゃいで、食べ過ぎるなよと俺に注意されるのが定番の朝の流れなのだが。
けれど、桃花はいない。
今頃一人で、部屋で仲居の方が用意してくれた朝の御膳をいただいているのだろうか?
寂しがって、いつもより食が進まないのだろうか? それとも、ご飯のおかわりをし過ぎていないか、どちらにせよ師匠としては心配である。
「おう、稲田君おはようさん」
「会長、おはようございます」
向かいの席に、朝食のトレーを持った北野会長が声をかけてきた。
まだ、起き抜けで館内着のままだ。
「なんだ? 桃花ちゃんがちゃんと朝飯食べてるか不安だな……って顔だな」
「会長はエスパーか何かですか?」
「別にエスパーじゃなくても、師匠のお前さんが考えてることなんぞ誰でも解るわ」
カカカッと笑いながら、会長は海苔に醤油をつけて食む。
「今日も解説よろしくな。昨日の折原との解説コンビが評判良かったぞ」
「折原さんがズケズケ聞いてきて、俺はもう勘弁してほしいんですが」
「師匠と気兼ねない掛け合いができるコンビは案外貴重だからな。またセッティングしよ」
俺の苦情要望をまるっと無視して、北野会長が笑いながら味噌汁をすする。
「で、2人の研究会メンバーの稲田君は、今回の対局どう見る?」
「朝からぶっこみますね会長」
俺たちの机の周囲の席の人たちが、一瞬ピクリと反応する。
ホテルの朝食会場には、将棋連盟の関係者以外にも、新聞記者などのマスコミ関係者もたくさんいる。
無論ここは非公式の場だし、対局会場ホテルに同道を許されている記者は、盗み聞いた話を記事にしたりはしないとは思うが、聞いておきたい話なのか、みな目の前の朝食を箸でつついて誤魔化しつつ、こちらに聞き耳を立てていた。
「桃花が穴熊を採用したのは意外でした。慣れぬ戦法で自滅しているというのが今局の大方の見方ですが、私の見解は違います。桃花は何かをしでかそうとしている」
「ほう……もしかして、今局は練習対局で現出したパターンなのか?」
会長が、棋士として興味がそそられたという真剣な顔でこちらを見る。
会長の背後からは、もはや盗み聞きの体を忘れた記者連中まで、俺の方を凝視している。
「いえ、そういう訳ではありません。ただ、桃花は羽瀬王棋を相手に今更緊張して、慣れぬ戦法を選んで自滅するようなカワイイたまじゃないってことです」
「なんだよ。結局は、ただの弟子自慢かよ」
身を乗り出して聞いて損したと、会長がドカッと席に座ったのを皮切りに、場の空気も弛緩し、記者たちも興味が失せたのか、朝食を再開する。
別に、さきほどの見立ては、俺の率直な意見だったのだがな。
桃花が何を狙っているのかは解らないが、何かを企んでいることは解る。
それが、長年隣で桃花と共にあった師匠の俺の見立てであった。
◇◇◇◆◇◇◇
「王棋戦第1局。2日目の解説は、本日も私、折原と師匠でお送りします」
「師匠じゃなくてちゃんと名前で紹介してください折原先生」
「名前より師匠の方がファンの人たちには通りが良いだろ。稲田七段って言われても伝わらんだろ」
「朝一で人をディスるの止めてもらっていいですか?」
今日も、昨日と同じ解説コンビで大盤解説会場を湧かせる。
こちらも女流棋士相手より大して気を使わずに済むから、楽なコンビではあるのだが。
「しかし、封じ手開封から飛龍四冠はすぐに指したな」
「先の手までは想定内ということでしょう」
昨夜の桃花は眠れたのだろうか?
画面から見える桃花の顔からは、その辺りの調子までは読み取れない。
「え~と……今回の封じ手は後日、連盟でオークションにかけられるそうです」
舞台袖のスタッフからカンペを出されたので、俺が読み上げる。
「うへぇ~。羽瀬王棋と飛龍四冠両者の署名入りだから高額になりそう。連盟もがめついな」
「折原先生。落札金額はチャリティーに全額寄付されるので、その連盟批判はお門違いですよ」
俺がフォローしなきゃいけないから、やっぱりこの解説コンビは俺への負担が大きい気がする。
やはり、今後は折原先生との組み合わせはNGにしてもらおうか。
「ここで銀取りか。ちょっと無理攻めじゃないか?」
「今の手で。評価値AIも羽瀬王棋へさらに10%傾きましたね」
中盤に入り、徐々に駒がぶつかり合ってくる。
桃花が指した銀取りの一手は、AI的にも最善手ではない。
「意図が読めねぇな」
「たしかに。難解な局面にでも誘おうとしてるんでしょうかね?」
折原先生も俺も考え込むが、桃花の狙いが読めない。
「それにしても、飛龍四冠は早指しだな。持ち時間が、羽瀬王棋と1時間半以上も多く残ってるぞ」
「まぁ、羽瀬王棋は長考派ですからね。ただ、これだけ中盤でじっくり考えられるのも、圧倒的な終盤力があってこそですけどね」
現況については、羽瀬王棋は持ち時間についての差は、さして気にしていないだろう。
自身が優勢であることも自覚しているはずだ。
だが、相手が桃花であるという事が影響してか、羽瀬王棋もいつになく慎重な様子だなと言うのが、研究会で普段の様子を見ている俺の印象だ。
その後も、羽瀬王棋は持ち時間をじっくり使って、手を指していき昼休憩に入った。
「昼食メニューは、羽瀬王棋は肉豆腐定食、飛龍四冠が豚の角煮御膳にすき焼きうどん追加でご飯大盛です」
「すげぇ食うな、飛龍四冠。若いね~」
「また、桃花はご飯大盛に、うどんまで追加して……」
「ハハッ! 師匠の指導が足りてないんじゃないの?」
昼食休憩明けの午後の対局が再開された後の恒例行事である昼食発表で、桃花が食べたメニューを聞いて渋い顔をした俺を、折原先生が茶化す。
対局者の昼食メニューやオヤツの発表は、対局場のホテルや旅館、対局地域の宣伝にもなるので外せない。
そういう意味では、追加の単品料理まで食べてくれる桃花は、対局会場にとっては、露出が増えて大喜びなのだ。
「お、飛龍四冠がさっき取った銀を自陣に投入した。穴熊をさらに固く囲おうって魂胆か」
「しかし、これで下駄は相手に明け渡すから、ここから羽瀬王棋のラッシュですね」
劣勢故なのか、桃花は更に守りを固くする。
攻守のバランスをどう取るかというのは、棋士にとっての永遠の課題だ。
しかし、こういう劣勢の時にこそ、攻めに打って出る性分の桃花にしては、積極性に欠けるようにも見える。
「うは……猛攻だ」
固い桃花の自陣へ、次々と羽瀬王棋の攻め手が指される。
重たい一撃が次々と繰り出され、桃花の陣で王を護る配下が次々と剥がされていく。
そんな中でも、桃花は剥がれるたびに、自陣に駒を投入して、綻び緩んだ自陣を立て直す。
そんな攻防が幾度となく繰り広げられた。
「評価値は飛龍四冠が20%か。これは、そろそろ終わりかと思ったけど……」
「ええ。まだ、終局への絵が見えないですね」
攻めている羽瀬王棋の方に形勢はジリジリと傾いてきている。
ただ、桃花の守りが予想以上に固い。
そんな中、ジリジリと桃花が亀の歩みで攻撃の駒を攻め上がらせる。
「ん!? ここでまた銀取りになって……」
「これで場にある4枚の銀が飛龍四冠の持ち駒になったってことか」
「もしかして桃花の奴……」
俺がそう呟いた後に、手番が桃花に渡った所で、桃花は先ほど獲った銀を自陣に投入した。
「銀4枚の穴熊!? なんだこれ! こんな形はじめて見た!」
「プロの、ましてやタイトル戦でお目見えなんてしない、まさに異形ですね」
通常の穴熊は金2枚に銀1枚で構築されるが、今や桃花の穴熊は金2枚、銀4枚だ。
こんなのは、まるで素人の将棋だ。
「評価値はどうなってます?」
「飛龍四冠が10%で、更に下げた。ただ、これどこから崩して行きゃいいんだ?」
無茶苦茶な形だが、研究したことの無い形で、ちょっと考えても王手はかからない。
羽瀬王棋からすれば、いくらでも攻撃の手は考えられるが、その選択肢の多さゆえに、迂闊に攻め手を決める訳にはいかない。
桃花も、守りながらジリジリと攻め駒を上げてきているのだから。
その結果、羽瀬王棋の持ち時間がどんどんと削られていく。
「これは……そういうことか!」
「なに? どういう意味?」
「折原先生。それと、この対局をご覧のファンの皆さん、師匠として先に謝っておきます。すいません」
「いや、重ねて意味が解らん。どういうことか説明して」
突然、俺に謝られて、理由が解らず折原先生が困惑する。
「はぁ……我が弟子ながら、なんて性格が悪いというか、根に持つタイプというか……」
「いや、俺も観客の皆さんもポカンだから、はよ説明しろや!」
「今局で桃花が羽瀬王棋に仕掛けた作戦は、ずばり体力勝負です」
「体力勝負? 将棋で?」
言っている意味が解らんと、折原先生が腕を組んで小首をかしげる。
「ここから始まるのは、トップ棋士が演じる壮絶な泥仕合ですよ」
「泥仕合……」
「観客の皆さん。今日泊りじゃない人は、今のうちに終電の時間を確認しておいてください」
俺が観客や、中継を観ているファンへ覚悟を決めるように伝えたのが、まるで聞こえていたかのようなタイミングで、画面の向こう側の桃花が脇に置いた巾着袋から、着物用の腰紐を取り出した。
桃花は、取り出した腰紐の紐端を口に咥えて、着物の袖をたすき掛けにする。
シュルッシュルッと、たすき紐と着物が擦れる音だけが対局場に響く。
「うっし!」
と着物のたすき掛けを終えた桃花は気合を入れると、羽瀬王棋の方を見て一瞬ニヤリと笑った。




