第65局 穴熊の弟子
「挑戦者の飛龍桃花四冠が対局場へ入られます」
庭園の玉砂利が擦れる音が静かな庭園の中に響く。
昨夜の前夜祭の高校の制服とは打って変わって、二尺袖の着物と袴に草履という出で立ちの桃花が対局場に近づくと、多くのカメラが彼女の姿を追う。
そんなカメラの数を前に、眉一つ動かさず、玉砂利を踏みしめてきた履物を優雅な所作で脱ぎ、対局場である茶室へと上がる。
下座の挑戦者の席へ正座し、手に持った巾着袋を横に置いて、目をつぶって静かに桃花はその時を待つ。
「羽瀬王棋が対局場へ入られました」
桃花が盤の前に座ってから数分後。
羽瀬王棋が入室し、上座に座る。
静かな茶室の中に、記録係のチャキッ、チャキッという、振り駒を振る音だけが甲高く響いた。
「と金が三枚なので飛龍四冠の先手番となります」
立会人の言葉を受けても、桃花も羽瀬王棋も身じろぎ一つしない。
対局開始時刻までの数分間は、時折落ちるカメラのシャッター音と、誰かの咳払いの声と空調の音だけが響く静かな空間だ。
「定刻となりました。王棋戦第一局を開始してください」
「「よろしくお願いします」」
ファンが待ち望み、ついに実現した棋界の二大巨頭の激突。
その物語は、意外なほどに静かに幕が上がった。
◇◇◇◆◇◇◇
「いやぁ……中継映像で観てるだけでも息が詰まりそうだわ」
「たしかに、静かなのに迫力がありましたね。けど、折原先生はタイトル経験者だから、こういう緊張感には慣れてるんじゃないですか?」
「ああん!? 師匠よぉ~、俺が棋叡のタイトルを奪われた古傷をえぐるのがそんなに楽しいのか?」
「もう今期の棋叡戦も桃花が防衛して二期目ですから、いい加減に棋叡の亡霊でいるのは止めましょうよ。あ、全国の将棋ファンの皆さん、遅まきながらこんにちは。本日の大盤解説の稲田です」
「お前、さらに傷口に塩を! 師匠として、弟子の被害者はいたわれって言ってるだろうが! 同じく解説の折原です。今日はB1で絶賛停滞中の2人でお送りしま~す」
お見苦しいオープニングからスタートした大盤解説会場だが、どうやらつかみは上々だったようで、お客さんたちは笑ってくれている。
「さて、先手は飛龍四冠で、戦型は角換わりか」
「研究でもよく指す戦型ですね」
序盤という事で、両者とも定跡どおりにテンポよく指していく。
「そういや、師匠入れて3人で研究会してるんだよな。凄いよな。俺なら、息できんわ」
「流石に今は慣れましたけどね」
「羽瀬王棋が、名古屋まで通って来てるんだろ?」
「桃花がまだ学生という事で、色々気を使っていただいてますね」
「棋士の研究会って、お互いに力を認め合ってる同士じゃなきゃ成立しないからな」
「羽瀬王棋は、いずれ今日のような日が来ることを、中学生棋士だった桃花から感じていたんでしょうね」
画面の向こう側に映る、研究会では最早見慣れた2人が対局をする光景を眺めながら、俺はしばし解説の場であることを忘れて見入ってしまう。
いつもの3人なのに、俺だけが画面で眺めることしかできないもどかしさを感じていた。
「っと、戦局が動いたぞ。って、穴熊か」
「桃花にしては珍しいですね」
穴熊は守りの戦法で、王を戦場から遠ざけて、お供の金と銀でガッチリ護る囲いだ。
守りを固めた上で、じっくりと攻めたい時に採用するのだが、早指しで急戦型の桃花が選ぶのは珍しい。
「少なくとも、今までのタイトル戦では使ってこなかったよな」
「羽瀬王棋相手なので、慎重に行ってるんでしょうかね」
「慣れない甲冑の重さが仇にならなきゃいいけどな」
折原七段のこぼした懸念は、序盤の終わりあたりで現実のものとなる。
1日目の終わり。
まだ盤面は序盤の段階だが、すでにAIの形勢判断では羽瀬王棋の方へ形勢が傾いていた。
「ここまで4つのタイトルをスイープで奪取してきた飛龍四冠でも、流石に初めての2日制の対局で、羽瀬王棋が相手じゃミスも出るか」
「まだ序盤ですから解りませんよ」
「バカ言え。羽瀬王棋相手にリードを奪われたら、そのまま持って行かれるのがオチだろ」
「いや、だから折原先生……これは興行なんですから、1日目でそんなあっさり勝敗がついたみたいなこと言わないでくださいよ」
「そりゃ、弟子にデレデレな師匠は挑戦者もちだろうけどさ」
「いつ誰が弟子にデレデレしてました!?」
「いや、解説中もほとんど弟子の話ばっかしてたじゃねぇか。さすがにあれは、俺もちょっと引いたわ」
「あんたがやたら桃花のことを聞いてくるからでしょうが!」
とんだマッチポンプ野郎は放っておくとして、桃花の形勢があまり良くない事は事実だった。
「お、羽瀬王棋が封じ手だ。まぁ、ここから変化する局面だからな。いいタイミングでの封じ手だな。こういう所は、さすがタイトル経験豊富な羽瀬王棋だな」
封じ手とは、2日制の対局において1日目の最後の手番の棋士が次に打つ手を書いて、封筒に入れて封じることだ。
こうすることで、手番のある方が一晩の間、次の手を考え尽くすことができるという不公平を失くす、2日制特有のルールだ。
「こりゃ、飛龍四冠は今夜は寝れないだろうな」
折原七段の言う寝れないとは、次の手が何なのか。そして、その後の変化はどうなるのかという検討が頭の中をぐるぐる回り、布団に入って寝ようとしてもなかなか寝付けない状況を指す。
対して、封じ手で次の手を決めている羽瀬王棋はぐっすりだろう。
「そうですね、ちゃんと寝てくれるといいんですけど」
封じ手に署名を入れる桃花を眺めながら、俺はポツリと呟く。
初めての2日制で、初めての一人だけの夜。
誰も、手を差し伸べることはできない。
全て、自分の力だけで乗り越えなくてはならない。
「がんばれ」
解説のために着けているピンマイクでも拾えないほどの小声で、俺は師匠として桃花へエールを送った。




