第61局 師匠の目標
「モモしぇんしぇ~ はい、指しました」
「お、角で攻めてきたね~」
「モモしぇんしぇ~ 金っていうのが邪魔だよ~」
「そうだね。王と金は仲良しさんで、一緒にいると厄介だから金を離れ離れにしないとね」
「え~、でも仲良しさんなのに離れ離れにしちゃうの可哀相だよ……」
「大丈夫。また戦場ですぐ会えるよ。今度は敵としてだけどね」
「ねぇ~、パパとママが言ってたけど、モモちゃん先生はプロの将棋の人で強いんだよね~?」
「そうだよ~。だから、こうやって私が指導対局するのは、本当は100万円くらいのお金がかかるんだよ」
「え! 僕、そんなお金持ってないよ……」
「大丈夫だよ。変わりに、マコ先生に、モモ先生は綺麗で子供好きで、優しくて、奥さんにぴったりだって、それとなく援護射撃……って痛い痛い! 師匠!」
「なにを園児に強要してるんだお前は」
俺に顔をアイアンクロー状態で掴まれた桃花が、タップしてくる。
「いや、無償の対局なので、せめてこれくらいの役得はあっても罰は当たらないかなって」
「園児から見返りを求めるな!」
「分かりましたから師匠、怖い顔しないで! ほら、園児たちの前ですよ。笑顔、笑顔!」
誰のせいで、説教することになってると思ってんだ。
「それにしても、春休みだからって毎日来なくてもいいんだぞ桃花。今は棋叡戦の防衛戦真っただ中だろ」
「私も好きでここに来てますから、気にしないでください師匠。ちびっ子と走り回って体力づくりしないと」
「じゃあ、今期からはいよいよ2日制タイトルの奪取に動くのか」
「ですね。2日制の長い持ち時間のタイトル戦を戦い抜くには体力が必要ですから」
かつて、羽瀬覇王・名人にも指摘されていたことだが、男女の差として最も大きいのが体力差だ。
基本的に、インドア派が多いであろう棋士ではあるが、それでも性別によっての筋肉の付きづらさというものがある以上、女性棋士の方がより意識して体力づくりには取り組まなくてはならないだろう。
「王棋、智将、そして覇王か。いずれも相手は、羽瀬覇王・名人か」
「今は1日制タイトルを私が独占して、2日制タイトルを羽瀬覇王・名人が独占していますからね」
「あの人は、じっくり考えるのが好きなんだろうな」
初めて我が家に押しかけて来た時に桃花と指したのと同じく、研究会でも、羽瀬覇王・名人は長い持ち時間での練習対局を好んだ。
いわば模擬タイトル戦である。
付き合う方はなかなか大変だ。
しかし、桃花がいざタイトル戦の本番でも物怖じせずに結果を出せたのは、この模擬タイトル戦のおかげでもあると言えるかもしれない。
「ほら、マコ先生、モモ先生。2人とも棋士の顔になってますよ」
「あ、すいません、さゆり先生」
「お~し、ちびっ子たち。今度はおにごっこやるぞ~」
いつの間にか背後にいたさゆり先生に注意されて、俺と桃花は慌てて動き出す。
「マコ先生も4月から、保育園のシフトを増やしてどうですか?」
「大変だけど、なんだか充実してます」
不思議なものなのだが、将棋の研究に使える時間は総量としては間違いなく減ってるのに、研究時間が短くなった分、きちんと切り替えて集中しなきゃと思えて、かえって研究がはかどってる気がする。
「シフトを増やしたのは、やはり保育士試験を受けるためですか?」
「はい。今までは、色々と迷っていましたが、受験するのを決めました」
「保育士試験を受けるには、実務経験が必要ですからね」
「そうなんです。お手伝い程度のバイトだったのに、里美園長先生がきちんと就労記録をつけてくれていて」
特に保育系の大学や短大を卒業していない俺が保育士試験を受けるためには、保育園での実務経験が必要だ。
そのための就労記録を、里美園長先生はキチンと記録してくれていたのだ。
俺がこのバイトを始める当初は、ボランティア扱いでかまわないと言ったのだが、里美園長先生はかたくなに反対したのだ。
これは、後に、俺が保育士を本格的に目指すことを読んでの選択だったのだろう。
あの人には、ほんと頭が上がらないな。
「棋士もやりつつ保育士も本格的に目指すなんて凄いと思います」
「いえ、そんな……ただ、弟子のあいつに、少しでも師匠として見せられる背中があればなと思いまして」
「よく見てくれてると思いますよ、桃花ちゃん。将棋であんなに有名人になってるのに、こうやって来てくれるんですから」
「そうですかね」
「保育士試験の勉強で解らない事は、何でも私に聞いてください」
「ありがとうございます、さゆり先生」
自分の夢に正面から向き合うことにしたわけだが、俺は別に将棋のことを諦めたわけではない。
ただ、チャレンジもしていないのに、勝手に自分の限界を決めるのだけは止めようというのが、昨シーズンの俺が得た教訓だ。
それを教えてくれたのは……
「マコ先生のお嫁さんは、みんな誰がいいと思うかな? せーの」
「はいはーい! モモ先生がいいと思います」
「はい、そのとおりです」
何やら、園児を使って小芝居をしていた。
「でも、マコ先生って、さゆり先生とも仲良さそうだよね」
「モモ先生は、最近来るようになった新キャラだしね。ちょっと弱いかも」
「モモ先生、これ言ったら特別にお菓子くれるって本当?」
「ちょっと!? さっき練習したとおりにやらないと、もう、対局でスポンサー様からもらうお菓子持ってこないぞ!」
結局は、園児たちを御しきれていない桃花が慌てふためく。
「だから、園児に何を吹き込んでんだお前は。またアイアンクローをくらいたいのか」
「モモ先生。子供たちをお菓子で釣るのは止めてくださいね」
「うひっ! す、すいません……でも、ちびっ子たち、全然こっちの思ったとおりに動いてくれないです」
しょぼくれた桃花が、ちっとも言う通りに動いてくれない園児たちを愚痴っぽくこぼす。
「だろ? だから面白いんだよ。子供は」
桃花の困惑している様子を見て、俺とさゆり先生は得心顔で頷いた。




