第57局 結婚するかぁ~
「残り30秒ぅ~」
深夜1時。
とうに終電を逃すことになってしまった記録係の奨励会員の秒読みの声は、ようやく終わるという安堵からか、心なしか少しだけ先ほどよりも弾んでいるように感じられた。
「負けました」
「ありがとうございました」
今期のB1最終局は、俺の黒星で幕を閉じた。
「あれだけやったのに……」
感想戦中もどこか上の空で、俺の心の中に去来し続けるのは、どうしようもない現実だった。
やった。
必死でやった。
これ以上ないくらい、全てを将棋に注ぎ込んだ。
エンジンをかけるのがシーズン中盤からで遅かったからか。
もっともっと、全てを注ぎ込まないといけなかったのか。
あんなに周りに迷惑を掛けたのに、結果はこのざまか。
色んな制御できない感情が頭の中をのたうち回っていた。
◇◇◇◆◇◇◇
「ただいま帰りました。棋皇獲ってきましたよ師匠! これで先日獲った玉座と合わせて四冠で……って、お酒臭い!」
「おう~ 桃花と姉弟子。お帰り~」
いつの間にか、ダイニングテーブルに突っ伏して寝てしまっていたが、騒がしいのが帰って来たことで、意識が沼の底から辛うじて浮上した。
「ああ! これ、私がこの間の出張で、酒蔵から買った銘酒!」
「一升瓶ほとんど空ですよ。師匠、どれだけ飲んだんですか」
「あ~そんなにか~ 一昨日の夜からチビチビやってたからな~」
「一昨日の夜って……丸2日ちかく、お酒飲んでたって事ですか」
「あーあー、ワイシャツも裾が出てグシャグシャじゃない」
だらしのない格好で1人で飲んだくれていたのがバレてしまったが、もはやそれもどうでも良かった。
「師匠電話も出ないし。何があったんですか?」
タイトル戦が終わって、遠方からの長旅で疲れているはずの桃花が、散らかったビールやチューハイの空き缶を片付けてくれる。
俺はそれを見ていると、自分が酷くみじめに見えた。
「桃花。結婚するかぁ~」
(ガンガラガッシャーン!)
驚いた桃花の手から零れ落ちた空き缶が派手な音を立てて床に散らばる
「はい⁉」
桃花は、目を見開いて俺の方を見る。
「結婚したら、保育園を一緒に経営するか~ それとも、桃花の実家へ移住して田畑を耕す生活も良いな~」
「…………」
「あんれ~? 無反応か~? 何だよ。てっきり桃花の事だから、速攻で区役所に婚約届を貰いに走るのかと思ってたのによ~ つまんねぇな~」
あてが外れた俺は、ケタケタ笑いながら、寝起き時からグワングワンと響いていた頭痛を取り払うために、迎え酒よろしく、その辺にあったチューハイの缶をあおる。
中身は常温になっていて、ちっとも旨くなかった。
「師匠、悪酔いが過ぎます。もう寝てください」
桃花は、先の俺の「結婚しよう」やら結婚後の未来予想図云々の話を、酔っぱらいの戯言としてスルーすることに決め込んだようだ。
無表情で、床に落としてしまった空き缶たちを再び拾い上げ始める。
「お~い。桃花ちゃ~ん。言っておくけど、さっきのは本気だぞ~ いいのか~? このビッグウェーブに乗らなくてよ~」
何とかして桃花の無表情を崩したいと意固地になった俺は、しつこく桃花に絡んだ。
「本気……ですか」
「おう! 今なら、判子でもなんでも押して」
「だったら最悪ですね」
俺の軽口にかぶせるように、桃花はハッキリとした侮蔑の言葉と表情を俺に真正面から叩きつけてくる。
その瞳の奥には、いつもニコニコとしている桃花からは想像もつかない、激しい感情がうごめいているのが、酔っぱらっている俺にも解った。
「最悪か……そうか……」
しみじみと、桃花の言葉が染み入ったとばかりに、チューハイの缶をテーブルの上に置いた。
ほとんど中身が残っている缶が鈍い音を立てる。
「桃花。もう、俺のことは置いていけ」
「……⁉ 師匠、何を言って」
「いや、置いていけって言うのもおかしいな。元々、お前は俺のはるか先を走ってるんだから」
自虐的な笑みを浮かべながら、無意識に逃避するためにまたチューハイの缶に手を伸ばす。
「師匠……なんでそんな話になるんですか。A級に上がれなかったのが、そんなに悔しかったんですか? だったら大丈夫ですよ。明日から、また私と一緒に練習対局して」
「もう、俺みたいな凡人にかまうな!」
グシャリと、チューハイの缶を握りつぶし、中身が噴き出し、ヨレヨレのワイシャツをびしょびしょに濡らした。
声を荒げるつもりはなかった。
けれど、悔しさや恥ずかしさや自身への嫌悪感とアルコールの力で、理性のタガが外れてしまった。
酒を浴びたって言うのに、身体は一向に冷えず、精神的な興奮からか熱いままだった。
もう、終わりだ。
何もかも。
ここで、桃花は泣いて家を出ていくのだろう。
けど、それでいいんだ。
弱い師匠にいつまでも期待し続けて、天才の有限な時間を空費させるわけにはいかないのだから。
俺は自身の突発的な愚行に、後付けの理由付けをした。
「洗面所の古タオル、雑巾として使いますよ師匠」
しかし、桃花はただ事務的な言葉だけを俺に投げて、こぼれたお酒で汚れた床を拭き始めた。
無言の室内で、桃花が酒を吸った古タオルを洗面所へ何度か絞りに行く時の物音だけが響く。
そして、床を拭き上げると、桃花は無言で俺の部屋から出て行った。
「姉弟子……今の桃花って、俺の言ってたこと理解してるんでしょうか」
「さぁね。それよりマコ。水要るでしょ?」
「ああ、ありがとうございます姉弟子」
さすがは日頃、吞兵衛なだけある姉弟子だ。
桃花の前では強がって酒に手を伸ばしていたが、ちっとも酔いたい気分でもなくなっていた。
「はいどうぞ」
「ありが……ぶふっ! ちべた!」
姉弟子から水の入ったグラスを受け取ろうとしたら、脳天にグラスを180度傾けられて、俺は濡れネズミになっていた。
「なにするんですか姉弟子!」
「ちょっとは頭が冷えた? バカ弟弟子」
あ、この姉弟子の顔。
マジでキレてる時の顔だ。
「酒の事で姉弟子に苦言を呈されるとは、珍しいこともありますね。いつもは逆の立場なのに」
「酒のことじゃないわよ。桃花ちゃんを突き放すようなこと言って」
「酒の勢いを使ったのは俺の落ち度ですが、これは師匠として前々から思っていたことです」
「師匠として……」
「師匠、師匠と甘えてくるあの甘えん坊の手を振り払ってやるのが、師匠として最期に弟子の桃花にしてやれることなんです。だから……」
「勝手に弟子の幸せとか決めつけないでよ! たかが師匠が!」
ここで、姉弟子からは何かしらの反論が返ってくるとは思ってはいたが、予期せぬ感情が爆発したような叫びに、俺も思わず驚く。
「な、なんですか姉弟子」
「私は中津川師匠のことが好きだった! 師弟としてじゃなくて、人として! 女として!」
感情の高ぶりからか、姉弟子の目には涙がにじんでいた。
「私は、師匠のことを支えたかった! 自分の女流棋士としてのキャリアなんて、私の中では天秤にかけるまでもなく、師匠の方が重くて大事なものだったの!」
「ケイちゃん……」
姉弟子の独白の迫力に、思わず呼び名が昔のそれになってしまう。
俺たちの師匠である中津川師匠への姉弟子の好意には、俺も子供ながらに気付いていた。
けど、俺はそれを見て見ぬ振りをした。
そして、おそらくは中津川師匠も。
「師匠だからって、人の心の中を勝手に決めないでよ! 好きって気持ちを伝えることすらさせてもらえなかった私が、どれだけ……どれだけ……」
とうとう大粒の涙がとめどなく零れ落ちてきた姉弟子が、床にへたり込みょうに座り込んでしまった。
俺が姉弟子を桃花のマネージャーに起用した最大の理由。
それは、彼女がかつて桃花と同じように、師匠に恋心を抱いて、そしてそれを失った痛みを抱えていたからだ。
もし、俺が桃花の手を振り払った時に、きちんとアフターケアが出来る人間を配置したのだ。
自分とは違う誰かに丸投げできるように。
どこまでも師匠として小さく、小ずるい俺には、泣きじゃくる姉弟子にかける言葉がなく、ただただ立ちつくす事しか出来なかった。




