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第55局 師匠の焦り

「もう一回だ桃花」

「またですか師匠。私は若いから何回でも出来ますけど、また腰を悪くしますよ」


 薄暗い俺の部屋で、桃花が半ば呆れたような声を上げる。


「いいから早く」

「まぁ、覚えたての子みたいに師匠が積極的に私のことを求めてくれるのは嬉しいんですけどね……」


 照れくさそうにポリポリと頬をかきながら、結局は桃花の方も満更ではないようだ。




「はい。駒並べ終えましたよ」


 俺と桃花は、今、俺の書斎で練習対局をしている。


「ありがとうな」


 エナジードリンクをかっ喰らって、無理やりに疲れきった脳みそを奮い立たせる。


「そんなカフェインの強いドリンクを夜に飲んだら寝れなくなりますよ」

「今夜は寝る気はない」


「え、私を寝かさないぞっていう決意表明ですか?」

「ああ、次の戦型は矢倉で頼む」


「……師匠、私の話聞いてないでしょ」


 あの新人王記念対局の後から、俺は遮二無二、盤に向かい合い続けた。

 ここまで鬼気迫るほどに、自分を追い込んでいるのは、三段リーグの頃以来かもしれない。


「今は、とにかくA級に上がりたい。まだ自力昇級の芽はギリギリ残ってるんだ」


「まるで、うわ言みたいですよ。師匠、寝てないでしょ」


「……寝た」


「ウソ仰い! だったら、序盤でこんなミスしないでしょ師匠」


「あ……」


 序盤の段階でミスが出た。

 憶えているはずの定跡の手順をうっかり一手飛ばして指していたことを、桃花に咎められる手を指されてからようやく気付いた。


「すまん……さっきの待った」

「しません。もう寝てください。おしまい」


「なぁ、頼むよ桃花。せめて後、一局」

「駄目です!」


 まるで、あとちょっとだけゲームの続きをやらせてくれと縋る子供と母親だ。。


「じゃあ、しょうがない。一人でパソコンで研究するか」

「寝 な さ い。寝たっていうのも、どうせ机で寝落ちしてたって意味なんでしょ?」


「う……」


 図星だった。

 ここ1ケ月程は、ほとんどベッドで寝れていない。


 ベッドに入っても、あの時の対局を思い返してしまって、何時間もベッドの中でモゾモゾしてしまって寝付けないからだ。


「師匠。何をそんなに焦ってるんです?」


「俺は……」


 俺は名人にならなくてはならないからだと言いかけて、回っていない頭ながら、辛うじてその先を桃花自身に話してしまう事はマズいと思って口をつぐむ。


「俺は、なんです?」


「何でもない」


 口をついた言葉を誤魔化すために、俺はプイッと顔を横に向ける。


「まったく。どうせ言っても聞かないなら、仕方がないですね。せめてマッサージして体のメンテナンスをしてあげますから、ベッドにうつぶせになってください」


「おお、ありがとう。正直、体のそこかしこが痛いからお願いしたかったんだ。ささっと済ませてくれ。まだ研究するから」


 そう言うと、俺は横にあるベッドに乗り、枕に顔をうずめる。


「いい夢を。師匠」


 そう、耳元で桃花が囁くと、いつもよりゆったりとした手つきで、身体がほぐされる。


 ずっと緊張状態だった俺の身体は、まるで溶けるアイスのようにその形を失うような錯覚を覚え、そのまま意識も水底へしずんでしまった。




◇◇◇◆◇◇◇




「はっ!」


 カーテンの隙間から漏れる光の眩しさで、意識が覚醒すると、すでに朝だった。


「うわっちゃ……もう昼じゃないか」


 時計を見ると時刻は11時を指していた。

 この明るさで夜の11時という事は無いので、午前の11時ということだ。


 つまり、俺は12時間ちかく寝ていたことになる。


「特に今日は対局や仕事は無いから良かったけど……ああ、朝食も弁当も作れなかったな」


 お昼の時間だから、もうとっくに桃花は学校に行っているだろう。

 胃の中が空っぽだが、寝すぎたせいなのか胃腸が働いていない気がして、食欲はあまりない。


 何か水分だけでも摂るかと思ってダイニングへ向かう。


「ん? この料理は」


 ダイニングテーブルを見ると、ラップされた朝食用と思しきプレートが置かれていた。

 よく見ると、皿の横に付箋メモが貼られている。


『冷蔵庫に野菜スープも入ってます。ちゃんと温かいものを食べて、しっかり体力をつけること! 桃花より』


 メモには、桃花の可愛らしい文字でメッセージと、何やらネコがフォークとナイフを持っているイラストが描かれていた。


「ったく。弟子に世話されてるようじゃ師匠失格だな……今更だが」


 俺はメモを読みながら、自嘲気味にこぼした。


「桃花も玉座戦の番勝負が佳境で、棋皇戦の本戦トーナメントもある重要な時期だってのに、俺の都合で振り回しちまった」


 自分の事に必死になって、周りが見えていなかった。


「だからこそ、結果を残さなくては……」


 そう言いながら、俺は冷めきった朝食プレートにあるオムレツを口に入れた。


 桃花作のためか、オムレツの味付けが少し薄味だった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 健康のためには薄味の方が。 内弟子って、師匠の世話をするのも仕事だったと思いますが、もうそんな文化も無くなりましたからねえ。
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