第54局 苦き思い出の記念対局
「しかし、貴方が新人王ですか」
「桃花が来ると思って準備していただいていたのに、残念でしたね羽瀬先生」
覇王・名人に新人王が気さくに話しているのは、本来はあり得ないだろうが、こちらも研究会で毎月のように顔を合わせているので、俺もさすがに慣れた。
「いいえ。寧ろありがたいです。私と桃花先生の激突は、やはりタイトル戦でなければ」
「それなら、今度桃花を会った時に、フォローしておいてください。俺が記念対局で桃花を回避したのにへそを曲げてますから」
「アハハッ! いいのですか? 稲田先生が桃花先生と表舞台の対局で当たるチャンスは、もう無いかもしれませんよ?」
最早、桃花は雲上人なので、一般の棋士の俺では対局のチャンスは無いのでは? という羽瀬覇王・名人の意地悪な発言だ。
師匠と弟子は棋戦の予選等では、意図的に対局を避ける組み合わせカードが組まれる。
それこそ、師弟対局が実現するには、棋戦の本戦トーナメントや、B1以上の順位戦など、高い次元でのステージでなければ実現しないのだ。
「大丈夫ですよ。私も羽瀬先生と同じく、桃花と対局するなら、大きな舞台でと思っていますから」
「ほう……」
こいつはどこまで考えているのかと見定めるような目で、俺の方を見てくる。
俺は、その視線に真っ向から立ち向かう。
「ああ、そう言えばこれ。母から預かって来ました」
「明美さんから? あ、これは前に頼んでいた、チーズケーキのレシピですね。本当に炊飯器で作れるのかやってみよう」
緊迫した雰囲気から一転して和やかな話題に移る。
この辺は、同じ研究会仲間で気の置けない間柄だからだろうか。
そんな事を考えながら、俺は羽瀬先生から受け取った明美さんの手書きレシピをいそいそと背広のポケットにしまい込む。
「貴方が私に負かされた後に渡すのは、ちょっと気まずいのでね」
「随分と余裕ですね」
再びのバチバチ。
「こうして対局直前の相手と談笑できる程度にはね。まぁ、非公式戦の花相撲なんですから、気楽にどうぞ」
「……では、存分に胸を借ります」
羽瀬覇王・名人に先を促され、俺は仕方なく先に対局室に入室する。
新人王記念対局は、東京将棋会館の鳳の間にて執り行われる。
先に下座に正座して待っていると、羽瀬覇王・名人が入室して、自分の目の前に座る。
「「お願いします」」
静かに当代覇王・名人と新人王の対局が始まった。
研究会では幾度となく盤を挟んで対峙してきたが、こうして対局の場という環境だと、また違う印象を受ける。
棋界の序列1位。
数々の伝説的な記録と実績を持つ、まさに棋界の頂点。
ただの新人王であれば、羽瀬覇王名人と対峙しただけで畏怖の念を禁じ得ず、その空気に呑まれて終わるだろう。
だが、俺は他の新人王とは違う。
この棋界のトップと俺は、既に1年間以上も定期的な交流がある。
人なりはよく知っているし、練習対局で、ある程度手の内も解っている。
完全に弟子のおこぼれを貰う形での交流なので、師匠としては甚だ情けないが、それでも俺は生き汚く吸収できるものは貪欲に吸収してきた。
それは、順位戦での昇級という形で、成果としても表れている。
目に物見せてやる。
「ほう……」
思わず、羽瀬覇王・名人が声を漏らす。
先手番として俺が選択した戦型は角換わり腰掛け銀。
羽瀬覇王・名人がタイトル戦でもよく用いるエース戦法だ。
『ガッチリ組み合った上で戦う』
奇策は用いず、相手が研究し尽くしているであろう戦型を敢えて選択する様に、
『こちとら、ガッチリ準備して来とるんじゃ』
という俺のメッセージを読み取った、羽瀬覇王・名人が興味を示したようだ。
『こう指したらどうする?』
『そこはまだ研究の範囲です』
『正解です。じゃあ、これは?』
手の応酬の一手一手で、対話が行われているような感覚。
言葉を交わさずとも、指した手、指すまでの消費時間で、お互いのメッセージが伝わる。
『うん。これは明らかに俺の形勢の方が上だ』
盤上が中盤に差し掛かった辺りで、俺は自身の優位を悟る。
AIの形勢判断は指している本人たちは見えないので感覚的なものであるが、ジワジワと勝ちを自分の手元に手繰り寄せられている感覚がある。
新人王の記念対局では、実は歴史上でも、新人王が勝った対局が幾度かある。
しかし、羽瀬覇王・名人は、毎年のように新人王と記念対局をしながら、一度も負けたことがない。
今回の対局の序盤のように、フワフワとこちらを試すような手を指してきているにもかかわらず、綱渡りのようにギリギリの細い穴を通して勝ちきったり、終局図を綺麗な詰将棋のように整えたりと、ある意味、普通に対局して負けるよりもしんどいようなやり方で、新人王をいたぶっていた。
とは言え、別に羽瀬覇王・名人に、新人つぶしの意図がある訳ではないのだ。
非公式戦ということで、この人はこの人で普段は出来ない楽しい将棋をしているのだ。
全力で自分に向かってくる新人王を相手にというのが、何とも小憎たらしいが。
しかし、これなら初めて、俺が羽瀬覇王・名人に土をつけることが出来るかもしれない。
そう、このままいけば……
「あ……」
ここで、俺は全く別の可能性が頭を掠めて、思わず間の抜けた声を発してしまう。
『気付くのが少し遅れましたね』
こちらが、自分の意図に気付いたことに気付きながら、羽瀬覇王・名人は悠然と自身の命である王の駒を手に取り指す。
『マジかマジかマジか! そんな事を、この新人王との記念対局でやろうっていうのか⁉ でも、考えれば考えるほどこれは……』
頭の中がグチャグチャになりつつも、俺も自身の大将たる玉を前へ進める。
自身の頭によぎった良くないイメージを払拭するためには、先の手を読んで、その疑念を振り払う結論付けをしなくてはならない。
しかし、考えれば考えるほど、手が進んでいけば進んでいくほど、その良くないイメージは、はっきりと輪郭を露わにし、形作られていく。
そして、終わりの言葉が、羽瀬覇王・名人の口から呟かれる。
「持将棋ですかね」
自分が優勢で攻め立てて、辿り着いた相手本陣は、もぬけの殻だった。
「…………はい」
もうすぐ手中に収められると思った勝利が、幻となって消えてしまったかのような感覚だった。
持将棋は、相手陣地に入玉し合い、お互いに詰ませる見込みがなくなり、これ以上駒が取れなくなった時点で、玉を除いた駒(盤上・持ち駒とも)のうち、飛車と角を5点、その他の駒を1点として換算した際、両者とも24点以上あれば引き分けとなる。
将棋は相手の陣に攻め入って、相手の大将である玉を詰ませるゲームだ。
それゆえ、前に進む性質の駒が多く、互いに入玉となり陣地が入れ替わると、決着をつけるのが困難となり、終局まで途方もない時間を要する泥仕合となる。
そのため、お互いの不毛な損耗を避けるために設けられたのが持将棋のルールだ。
「両者合意により持将棋が成立。1日制の記念対局ゆえ、指しなおし対局は行わず、勝ち負けなしとする」
立会人が宣言すると、俺は肩を落とした。
「流石は新人王を獲っただけはある。ちゃんと、私の描いた終局図どおりに動いてくれました。」
「……一体、いつから持将棋を狙ってたんですか?」
俺は振り絞るように羽瀬覇王・名人に尋ねた。
「最初からですよ。角換わりで来た時は思わず心の中でガッツポーズをしました。新人王に桃花先生が上がって来た時用に準備しておいた作戦が、無駄にならずに済みました」
「最初から……」
この人は、端から引き分けを狙っていたというのか⁉
俺が、あんなに前のめりになって、勝ちを取りに行こうとしていた時から。
「持将棋定跡の一つですよ。まぁ、ここまで綺麗に決まるのは、稀でしょうがね。相手が焦って無理攻めをしたりミスをしたら、ただ私のプレッシャーに負けて転んだだけの凡局で終わりますからね。そういう意味では、貴方も強くなっているのですね」
自分の意図通りの終局図にご満悦なせいか、俺へのリップサービスが羽瀬覇王・名人から飛び出すが、そんな事は今はどうでも良かった。
「何で、たかが新人王ごときに勝ちに来なかったんです⁉」
「自身が後手番としての引き分けは、先手番に実質的な敗北を与えるに等しいからです。今、稲田先生が悔しさと怒りがない交ぜになっている表情が、その証左です」
荒げた声で尋ねた俺の問いに、羽瀬覇王・名人は嬉々として答えた。
俺が忸怩たる思いを抱えている理由は、まさに羽瀬覇王・名人が言った通りだった。
もしこれがタイトル戦の番勝負だった場合、何も得られずに、手ぶらで先手番を相手に譲り渡すことは、こちらの敗北なのだ。
「ありがとうございました。自分には足りないものが多くあることに気付けました」
「こちらこそありがとう。新人王記念対局で、ここまで心躍ったのは初めてです」
結果だけを切り出せば、引き分けという双方に角が立たない、花相撲の興行としては最良の結果に終わったように思われるだろう。
だが、実態はただただ俺が、羽瀬覇王・名人との差を痛感させられる結果に終わった。
勝っていると思っていた盤面が、実は最初から相手の手のひらの上だったと思い知らされたのだから。
この新人王記念対局は、俺の棋士人生にとって生涯忘れ得ぬ対局となった。
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