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第52局 師匠の新人王戦

※注意:現実の新人王戦決勝は三番勝負ですが、本作では一発勝負としています。

 朝。


 関西将棋連盟の建物。


 今までも、これからも果てしなく長く通ってきた、通うことになる最早見慣れた建物。

 それでも、特別な対局の前では、やはりいつもと違う威容が発せられているように感じられる。


 そんな感慨にふけって関西将棋連盟の建物を見上げていると、ふと、横に同じように佇んでいる人物がいることに気付く。



「「あ……」」



 俺と相手は同じタイミングで、互いの存在に気付く。


「今日はよろしくお願いします」

「あ……ああ、こちらこそよろしく。四段昇段時の記者会見以来かな」


 俺が、すぐに返答できなかったのは、相手がこういうシーンで俺に話しかけてくるタイプの人間ではないと思っていたので、その意外性に驚いたためだ。


「私の認識だと、三段リーグ最終日前日の移動の新幹線の中で、飛龍二冠と一緒にいらしたのをお見掛けしたのが直近です」


 目の前にいる棚橋四段はニコリともせずに答えた。

 その目には、内なる闘志の炎が揺らめいていた。


「ああ、あの時ね。その節は申し訳なかった」

「思えばあそこから既に、飛龍二冠と私の間には厳然たる差がありました。最早、私が飛龍二冠と同期の棋士だということなんて、人々の記憶から滑り落ちているでしょう」


「棚橋先生って、こんな喋る人だったんですね」


 これは、三段リーグ時代のドンヨリとしたオーラを纏っていた棚橋先生を称賛するためのものではなく、お喋りが過ぎると暗に釘を刺すものだ。


「棋士として胸を張れと真壁師匠には教えられましたから」

「対局前の多弁は負けフラグだよ」


 尚もおしゃべりを切り上げる様子の無い棚橋先生に、今度は直接ジャブを打つ。


「すいません。でも、新人王戦準決勝の飛龍二冠を相手にまさかの不戦勝で、諦めていた新人王を獲れるかもしれないチャンスかもと思うと、つい興奮してしまって。だから……」


 棚橋先生は、ここで敢えて言葉を切り、俺の方へ身体を向き直させて正面から俺の目を見据える。


「今日は色んな物をひっくるめて、全てを貴方にぶつけさせていただきます」


 言い終わると、棚橋先生は先に関西将棋連盟の建物の中に入って行った。

 俺は、その背中をしばらく眺めていた。


「ったく。結局、弟子の尻ぬぐいは師匠の仕事か」


 そうボヤキを入れると、俺はゆっくりと関西将棋連盟の建物の中に入って行った。




「それでは定刻となりました。新人王戦決勝。振り駒にて決まりました、棚橋四段の先手で対局を開始してください」


「「よろしくお願いします」」


 立会人の水戸八段の口上の後に、対局は静かに始まった。


 これが、対局者が俺と桃花だったら、珍しい新人王を争う師弟対決ということもあって、報道陣が結構入っていたのではないかと思われる。


 対局は、角換わり棒銀模様から入った。


 ガンガン攻めるぜ! の棒銀を先手番時の戦法として採用したのが、今の、棚橋四段の前のめりさに合致している。


 そんな事を考えながら、棒銀の攻めを捌き、難解な中盤へ誘う。


 棒銀は、意図が単純なため対抗策もよく研究されている。

 基本に忠実に、後は力戦模様に引きずり込み、相手のミスを誘う。


 新人王戦ながら、棚橋四段は真っすぐで若さゆえの青臭さを感じさせる戦法で、俺の方はそれを老獪な手で迎え撃つという図式になってしまった。


 いや、俺と棚橋四段って、よく考えたら同じ歳の26歳なんだよな。


 そうか、新人王戦の年齢制限に引っかかるから、彼もまた今期が最初で最後の新人王戦なのか。


『こりゃ、将棋ファンからしたら、棚橋四段を応援したいだろうな』


 棚橋四段本人は、桃花という大きな光の影に隠れてしまったと言っていたが、そういう不遇な棋士が好みというファンは結構多いし、そういう棋士が結果を出すと、大きな賞賛が巻き起こるものだ。


 人々は物語を欲しているのだから。


 俺が勝ったら、桃花の不戦敗のおかげで新人王を獲れた師匠か。


 ハハッ、弱いな……物語的に。

 そんな、対局に関係のない雑念に囚われていることに気付き、慌てて盤面へ集中を戻す。


 中盤に入り、馬と飛車、飛車と角がぶつかり合う激しい局面。

 形勢は五分という肌感だ。


 棒銀で攻め立ててくる相手だと、この段階で五分の状況だと、ちょっと怖い。

 攻めが決まった時の棒銀は、そのままの勢いで勝ちまで持って行かれることが多い。


『さて、どうしたものか』


 と身をよじった時に、ふとズボンのポケットに入ったふくらみに気付く。


 そして、ポケットの中にある黄色いハンカチのことを思い出す。


 日頃の対局時は、正座で足に食い込んで気になってしまうので、ズボンのポケットの中は空にしている。


 けど、今日ばかりは、弟子から託された物を肌身から離したくはなかったのだ。


 そのおかげなのだろうか。


『あ……』


 盤面を眺めていると、一つの光景が浮かび、自然と手が動いた。

 7七の相手の王の斜め前に桂を指した。


 ここで、テンポよく指していた棚橋四段の手が止まる。


 一見すると飛車を取りに来た手に見えるが、いざ指されると、自陣の防衛駒を剝がされる手痛い手であり、かといって同桂とすると相手の攻めが速くなり厳しい、さらに王をかわしても受けが無い中、相手玉を固められて勝ち筋を失う。


 要するに、どう転んでも相手の勝ち勢となることを悟ったのだろう。




『最初から、桃花と当たらなくてラッキーなんて思ってる奴に負ける気はしなかったんだよ』


 こちとら、あの化け物と毎日のように練習対局をしてボコボコにされたり、研究会では羽瀬覇王・名人にボコボコにされているのだ。


 それと比べれば、これ位、どうってことはない。


 その後、長考の末に棚橋四段は角を飛車で切ったが、その手は明らかに勝つためのものではなく、できるだけ決着を長引かせるために選んだのだというのが、指した瞬間の悲壮な表情から読み取れた。


 その後の終盤については、半ば形づくりに近かった。


 勢いだけではどうにもならない。

 俺には、およそ勢いに乗って勝ち上がれたという経験がない。


 ただ、実直に一段一段、階段を踏みしめて上る。


 それが、天才を間近で見てきた、俺なりの結論だった。




◇◇◇◆◇◇◇




【桃花視点】


「棋叡戦の副賞として、ホームビスケット1年分と、飛龍棋叡のリクエストで、高級包丁セットが進呈されます」


 棋叡戦のメインスポンサーであるお菓子メーカーの社長さんから、お菓子のパッケージが大きく印刷されたボードを受け取り、私はにこやかに壇上から笑顔を向ける。


 棋叡戦の就位式は、連盟の会長やスポンサーのお偉いさんたちの挨拶が終わり、副賞贈呈へ入っていた。


 副賞のお菓子は今度はビスケットで1年分か。

 また、保育園に配りに行かないとだ。


「最後に、棋叡位を獲得した飛龍桃花棋叡より、お言葉を頂戴します」


「はい。皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」


 就位式は初めてだけど、タイトル戦の前夜祭や祝賀会などで、既に幾度もこの手のセレモニーでの挨拶というものを経験してきているので、我ながら堂に入ったものだ。


「副賞でいただいた高級包丁セットは、最近、師匠に料理を習っているのでお願いしました。スポンサー様、ありがとうございます。なお、お菓子は、食べ過ぎだからもう止めろと師匠に怒られる程度には自分で食べてます」


 ドッと笑いが起きる。


 挨拶は型にはめた構成で、所々にユーモアをチラリと覗かせる。

 この辺のテクニックは、ライブでMCをやる美兎ちゃんから教わったものです。


 餅は餅屋ですね。


「また来年、この場に戻ってこれるよう、より一層精進します。本日はありがとうございました」


 しっかりとまとめた無駄のない挨拶で締めくくり壇上からお辞儀をすると、割れんばかりの拍手が巻き起こる。


 後は司会のお姉さんが就位式の閉会の旨を宣言し、私は楚々と退場して、本日のお仕事は終了だ。


 と、思ったのだが司会席の方で、何やらスタッフが司会の人にメモ紙を差し出している。


『何だろう?』


 私の締めの挨拶から微妙に間延びしたことで、客席側もザワザワしている。


「え~、最後に。今、飛び込んできたニュースですが」


 司会の方が、急遽差し出された紙を読み上げるように、閉会の言葉ではない内容を告げる。


「飛龍桃花棋叡の師匠である、稲田誠七段が新人王戦の決勝対局に勝利し、新人王を獲得したとのことです」



「やったーー-!! 師匠おめでとー-っ!!」



 折角今まで、しゃなりしゃなりとしていたのに、最後の最後で私は、着物姿で、壇上で多くの観覧客がいるにも関わらず、その場でピョンピョンと飛び跳ねて喜びを爆発させてしまった。


 棋叡位を獲得した時の何倍もの喜びように、棋戦スポンサーのお偉いさんたちは、ただただ苦笑いをしていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] きっちり御利益が。 この場に戻ってこれるよう、って少し悩んだけれど、就位式だからタイトル防衛できるよう、という事なのですね。
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