第50局 ひひょう……はずかひ……
「ハァハァ……ししょ……」
「舌を出せ桃花」
カーテンを閉め切った桃花の寝室で、深夜の暗がりの中に弟子と2人きり。
「や……そんな事できな……」
「いいから出せ」
俺の有無を言わせぬ強い命令口調に身体を小刻みに震えさせながら、桃花はおずおずと口を大きく開けて舌を露出させる。
日頃、見せることのない自身の身体の一部を俺にマジマジと見つめられていることへの恥ずかしさもあってか、桃花の顔は真っ赤だ。
「ひひょう……はずかひ……」
ハァハァと荒い息をしながら、桃花は舌を出したまま何かを訴えるように上目遣いに俺を見上げる。
「ん、赤いブツブツがあるな。感染症の疑いありだな」
舌に赤いブツブツが出来たら溶連菌感染症で、白い苔が出来たらプール熱の可能性があるのだ。
保育園では、まだ抵抗力の弱い子供たちは色んな病気にかかり、そして園内で流行るので、俺もある程度は感染症の知識がある。
「熱が高めだな。すぐに夜間救急をやってる病院に行くぞ。着替えられるか?」
「うん……」
発熱のためかモソモソとした動きで、パジャマのボタンに指を掛ける。
「着替えたら声かけてくれ」
そう言って、俺は慌てて桃花の寝室を後にした。
しかし、俺の腰痛が治ったと思ったら、入れ替わるようにこれか……と思ったが、前回は俺が桃花に迷惑をかけたのだから、今度は俺の番だ。
「ししょ……着替え終わった」
「おう。ん? さっきは気付かなかったけど、そこの壁紙、破れてるな」
さっきは部屋の暗さで気付かなかったが、桃花のベッド横の壁の壁紙が一部破り取られていた。
まるで、何か壁に貼り付けてあった物を強引に引っぺがした痕のような。
「あ……なんでも……ないよ。それよりししょ……病院……」
「そうだな。タクシーの迎車が来たから行くぞ」
何はともあれ、まずは病院だ。
俺は、保険証などの入ったポーチ類をもって、桃花の身体を抱え上げる。
「ししょ……抱っこは恥ずかし……」
「なんだよ、2人きりの時には抱っこをせがむ癖に。いいから、病人なんだから大人しく抱っこされてろ」
桃花の苦情は受け付けず、俺は桃花をお姫様抱っこし状態で、マンションのエントランスに出て行った。
◇◇◇◆◇◇◇
「ししょ……ゼリー食べたい」
「ほいよ。飲料ゼリーだ」
「ししょ……あったかいの欲しい」
「ほい。梅昆布茶。口の中がさっぱりするぞ」
「ししょ……朝は味噌おじや食べたい。卵の入ったの」
「はいはい。って、こんな時でも食欲はあるみたいだな」
俺は笑いながら、桃花の頭をなでる。
味噌おじやは、ちょうど昨晩の残りの味噌汁があるから、それを使おう。
夜間診療病院で診察を受けたが、医師の診断は、やはり事前の見立て通り感染症で溶連菌との診断だった。
ちょうど内科の専門医が当直の先生で、すぐに診断がついたのが幸いだ。
「しかし、棋征戦の第2局までは日があるから大丈夫だろうが……」
姉弟子から送られてきていた桃花のスケジュールを見て、俺は思わず頭を掻く。
「今日の新人王戦の準決勝……どうしよう、ししょ……」
感染症なら、数日前に連盟に診断書と共に届け出れば、対局の延期をしてもらえる可能性もあるが、もう日が変わって当日だ。
さすがに、今から感染症による対局の延期の申し出をするのは間に合わない。
「残念だが、棄権するしかないな」
「うん……対局者に移しちゃ悪いもんね」
桃花の中でも結論はすでに出ていたのか、ベッドの中でコクンと頷く。
「じゃあ、連盟には俺が朝一で電話しておく」
「ししょ……ゴメンね。夜通しで看病させて」
「心配しないで寝てろ。起きたら味噌おじや作ってやるからな」
「うん……」
桃花の頭を優しく撫でてやると、桃花は安心したのか、間もなくして瞼を閉じてスースーと寝息を立てだした。
「さて、連盟に電話するか。しかし、これはひと悶着あるかもな」
桃花には心配ないと言っておきながら、内心は気が重いなと思いつつ、俺は連絡を入れた。
◇◇◇◆◇◇◇
「回復しました!」
「おう、それは何よりだ」
数日後、そこには目の前で元気にシャドーボクシングをして、健在ぶりをアピールする弟子の姿があった。
「元気になったけど、まだ家にこもってないといけないんですね」
「熱が下がって動けるようになっても、保菌期間があるからな」
「びっくりしたよ。出張先で桃花ちゃんが倒れたって聞いた時は」
「すいません姉弟子。出張の日程を繰り上げてもらって」
「ごめんねケイちゃん」
「いいのよ。大体、目標は達成できてたから。けど、新人戦は残念だったね」
やはり当日の連絡だったということもあり、桃花は新人王戦に不戦敗による敗退が決まった。
桃花は既にタイトルホルダーのため、来期から新人王戦への参加資格を失っている。
それはつまり、新人王のタイトルの獲得を逃したことを意味していた。
「仕方ありません。体調管理もプロ棋士としての仕事なんですから」
桃花はとっくに割り切っているようだが、俺の中には、今回の桃花の体調不良について、内心責任を感じていた。
「すまないな桃花。俺のせいでこんな事になっちまって」
「……? 何がですか?」
言葉の意味が分からないという呆けた顔で、桃花が尋ねる。
「溶連菌は、多分、保育園で貰ったものだろう。おそらくは、俺がぎっくり腰の時に、桃花にピンチヒッターで保育園のバイトに出てもらった時だ」
あの後、保育園でも溶連菌を発症した園児が出たので、そこで感染した可能性が一番高い。
もし、俺がぎっくり腰になんてならなくて、桃花が園に行かなければ恐らくは……。
「師匠、どこで何の菌をもらったかなんて、人間には解らないんですから。そこを気に病むのはおこがましいですよ」
「ぐ……だが、可能性的には一番……」
「私は子供たちと遊んで楽しかったので、今後も顔を出しますよ。まぁ、前にも増して手洗いうがいは徹底しますから。こういうのは、人間にはどうにも出来ない範疇の話なんですから、タラレバの話をしたって時間の無駄です」
「アハハッ、桃花ちゃんサバッとしててカッコいいね」
「でしょ? ケイちゃん。時代はサバサバ系女子なんですよ」
からからと笑い飛ばしてくれた桃花だが、俺にはまだ心に引っかかるところがあった。
「桃花。まだ一応は静養期間なんだから、家で安静にしてるんだぞ」
「え~、だって暇なんだもん」
「そう言えば、看病の際に入った時に気付いたんだが、桃花の寝室の壁紙破れてたけど、あれってどうしたんだ?」
「師匠やケイちゃんに移しちゃ駄目だもんね。お部屋に戻ります。じゃあね~」
そう言うと、桃花はサササーッと自分の部屋へと帰って行ってしまった。
「やけに今日はあっさり引き下がったな」
「あの年頃には色々あるからね~」
「女の子でも、思春期にイラついて壁を殴って破壊するみたいな行動ってあるんですか?」
「全然違うけど、思春期は色々と暴走しがちだから。その辺は私に任せておきなさい」
俺の訝し気な感想に、姉弟子はどこか含みがあるように笑って答えた。
まぁ、姉弟子の言う通り、ここは同性の姉弟子に任せておいた方が良いのかもしれない。
それに、ちょうど桃花がいないこの場は好都合だった。
「ちょうど良かった。桃花の件についてなんですが」
「桃花ちゃんの耳に入れたくなかった話ってことね。相変わらず、過保護な師匠だねマコは」
「……俺の師匠としての教育方針はともかく、こうも色々書き立てられたら、どうしたもんかという感じなんですよね」
そうボヤキながら、俺はいくつかのネット記事を印刷したものを取り出して、姉弟子に見せる。
「なになに……『新人王への忖度か⁉』、『飛龍棋叡に拭えぬ詐病の疑い』、『棋征戦集中のための戦略か⁉』、『玉座戦へのタイトル挑戦も睨んだ故意の敗退行為疑惑』等々……マスコミの皆さんは中々ゲスいこと書いてるね」
「どれも的外れな憶測に過ぎないものを、面白おかしく書きたてやがって」
俺は、悔しい気持ちを隠せずに唇を噛んだ。
元々、新人王については、タイトルホルダーの桃花は辞退すべきではという論調が一部にあって、微妙に燻っていた所を、今回の急病による桃花の不戦敗により、面白おかしく書き立てられてしまったのだ。
「感染症にかかったのは事実だし、将棋連盟からも、きちんと医師の診断書が提出されていて、申請手続きは何の問題もないと声明を出したのに」
「連盟もグルだっていうのが、その筋の人の見解らしいよ」
「どいつもこいつも……その筋の奴ってどこの誰なんだよ。やるなら堂々と名前を曝して発言しろってんだ」
「いつになく怒り心頭だねマコ」
「そりゃそうですよ。新人王戦に関しては、当初からあることないこと言われて腹立たしかったのに」
「責任感じちゃってるんでしょ? マコ」
「…………」
単刀直入な姉弟子の物言いにより、少し頭が冷えた俺は押し黙る。
「師匠の自分のせいで、弟子の桃花ちゃんが謂れのない誹謗中傷を受けるのを、情けなく思ってるんでしょ?」
「……姉弟子ってエスパーなんですか?」
「何年の付き合いだと思ってるのさ」
姉弟子の言う通りだった。
この怒りは、自分の情けなさを覆い隠すためのものに過ぎない。
どこまでも利己的で、そして情けない感情の発露だ。
「俺って駄目な師匠ですね……人間として、ちっちゃ過ぎる……」
頭を抱えながら、思わず姉弟子を相手に弱気な愚痴を吐いてしまう。
これも、弟子には見せられない姿だ。
「誰よりも師匠が怒ってくれて、弟子の桃花ちゃんはきっと嬉しいと思ってるよ」
「けど、俺は悔しいです」
「なら、将棋で黙らせるしかないね」
「将棋で……」
「貴方も将棋指しなら、力で外野を黙らせなさい。桃花ちゃんが取り逃した新人王のタイトルを、一門に持って帰って来なさいな」
姉弟子にかけられた発破に、俺の中でストンと落としどころが見つかる。
そして、それは俺の胸の内でメラメラと熱をもって燃え盛っていくのを感じた。
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