第42局 ヒマワリの花言葉
「あ~、飲んだ」
「今日は珍しく、アンタの方が酔っぱらってるね」
「姉弟子。いや、つい羽目を外してしまいました」
いつもは注意する側の俺が、珍しく俺の方が介抱される側だった。
今期の棋叡戦が無事に幕を閉じ、連盟や主催者や関係者だけのささやかな打ち上げが、会場の名古屋のホテルの中のバーラウンジを貸し切って行われた。
酒席ということもあり、未成年の桃花は早々に部屋に引っ込んでいたので、代わりに師匠の俺がかなりの数の杯の酌を受けた結果だった。
「部屋とっておいてもらって正解だったね」
「たかが花束を渡す役目だけだった俺に、結局はホテルの部屋を用意して貰うだなんて、主催者様に悪いな……」
「大丈夫よ。桃花ちゃんがタイトルを獲ってくれて、スポンサー様としては宣伝効果が半端なかっただろうから、マコ1人のホテルの宿泊代くらい、はした金よ」
「そういうもんですかね……」
急遽のお役目だけで部屋まで用意して貰ったのは、小心者の俺としては恐れ多い限りだ。
地元の名古屋なのに、帰宅せずにホテルに泊まるというのはなんとも贅沢だ。
とはいえ、今日は結構飲んだので、タクシーで帰るという手間が省けるのはありがたい。
「ほら、ルームカードキー」
「ありがとうございます姉弟子。じゃあ、皆さん、お先に失礼させていただきます」
「おう、稲田くん。おつかれ~ 明日も色々インタビューがあるだろうから、早めに寝とけよ」
「おやすみマコ」
北野会長たちの声を背中に、俺は翌日のむくみと二日酔い防止のためにミネラルウォーターのボトルをもらって、姉弟子から渡されたルームカードキーに記載された部屋番号の部屋に向かった。
シャワーを浴びて、とっとと寝ちまおう。
部屋の扉の前でルームカードキーをかざし、部屋の中の照明をつける。
部屋に入ると、酔っぱらいながらも何とかたどり着けた安心感からか、そのままベッドに倒れこんでしまう。
あ……これ、着替えも、シャワーも浴びれずに寝ちゃうパターンだ……
アルコールにより、ベッドの上にいるのにフワフワと浮かんでいるような感覚が心地よい。
翌日の取材インタビューのために、せめて風邪は引かないように掛布団だけはちゃんと掛けないと。
最後の力を振り絞って、俺はベッドの上の掛布団の中に転がるようにして潜り込む。
「んな……な⁉ 師匠⁉」
「ん……桃花か…………桃花⁉」
俺は瞬時に意識が覚醒し、ガバッ! と慌てて掛布団を剥いだ。
「桃花! なんで、俺の部屋のベッドにいるんだ⁉」
予想外の事態に、俺の心臓はドキドキと高鳴っていた。
決して、桃花が普段のパジャマ姿ではなく、ガウンを着ていたからではない。
「それはこっちのセリフですよ! し、師匠、まさか酔った勢いでついに私に夜這いを……」
桃花のドギマギした様子を見ると、どうやらふざけている訳ではないようだ。
「え……ここ、桃花の部屋?」
「そ、そうですよ!」
真っ赤になって、胸元を掛布団で隠している桃花の言葉を聞いて、俺はあらためて部屋の中を見渡してみる。
部屋の中には、桃花の物と思しきスーツケースや、先ほどまで対局で着ていた着物がハンガー状の衣桁に掛けられていた。
ここでようやく俺は、自分が部屋を間違ったのだと悟る。
「さては姉弟子……ルームキーを渡し間違えやがったな」
「ケイちゃんはいざという時のために、私の部屋の予備のカードキーを持っていたから、恐らくそうでしょうね」
姉弟子め……そういえば、今日は俺よりマシだったとはいえ、あの人も酒を飲んでたんだから、こういうミスも出るか。
「悪い桃花、対局で疲れてるのに起こしちまって。すぐに出てくから」
思いがけないハプニングで気まずくなったので、俺は早々に立ち去ろうとするが、
「うわっと」
酩酊状態寸前で急激に動いたりしたせいか、さっきよりも酔いが回って、足がもつれてしまい、再度ベッドに倒れこんでしまう。
「頭が回っちゃってるな」
「師匠、無理しないでください」
桃花が手を差し伸べてくれる。
俺は、桃花の手を借りて再度立ち上がろうとしたが、
「ていっ!」
桃花が、俺の手を取るやいなや、俺の手を引っ張って、布団のなかに引きずり込む。
普段ならともかく、酩酊一歩手前の俺では為す術もない。
「おまっ! 桃花、何して」
布団が被されて視界が暗くなる中、桃花の顔が至近距離まで近づくのが、吐息の熱さで解った。
ガウンのタオル地の生地の感触と、湯上りの臭いが、被された布団の中に、いつもの何倍もの濃度で鼻孔をくすぐる。
「ギュッてしてください、師匠」
囁くような怪しげな声が、耳に吐息と共に伝わる。
その声は、ビックリするほど大人びていた。
「……高校生にもなって抱っこをせがむな」
「いいじゃないですか。私、頑張ったんですよ? 師匠からご褒美欲しいです」
スリスリと俺の胸元に頭をこすりつけてくる桃花に、俺は観念して抵抗を止める。
「桃花が寝るまでだぞ」
「じゃあ、ずっと起きてます」
「対局の日にも問題なく眠れる質じゃなかったか?」
「別に対局で頭が煮えているわけではないです。今、師匠の腕の中にホテルのベッドで抱かれているという事実に、興奮が最高潮だからです」
「生々しい言い方するな!」
まったく。
高校に入って、なんだか大人っぽくなったなと思ったが、落ち着ききってはいないようだ。
「ねぇ、師匠。とうとう、師匠に追いつきましたよ私」
「っていうか、既に越されてるだろ。タイトルホルダーになったんだから」
棋士の序列は、段位や棋士として重ねた年数ではなく、トップ層には現役のタイトルホルダーが名を連ねることになる。
明日にも、将棋連盟のホームページの棋士一覧のページの一段目に、桃花の顔が躍り出るだろう。
「けど、師匠は師匠のままです。この先、私がどれだけタイトルを取ろうが、名人になろうが、私にとっての師匠は師匠のままなんです」
「そりゃあ、師匠冥利に尽きるな」
「私の大事な人、周りの人が変わっても変わらないでいてくれる人、だから大好き」
う……今日は随分と情熱的だな。
やっぱり、タイトルを獲得できた高揚感で舞い上がってるのか?
俺の胸の中で猫のように丸まっている桃花の体温が伝わる。
「素敵な花束もありがと……師匠。嬉しかった」
「ああ、季節はずれのヒマワリだったけど気に入ってくれたか。そういえば桃花、花束を渡された時に『私もです』って言ってたけど、あれはどういう意味だ?」
「…………」
「桃花?」
「スースー」
「なんだ寝たのか」
幸せそうな寝息を立てる弟子のぬくもりを感じていると、こちらも眠くなってきて、結局俺はそのまま桃花のベッドで一緒に寝てしまい、スポンサー様が用意してくださった俺の分の部屋は無駄になった。
「やべぇ! 寝ちまった!」
なんとか早朝に目が覚めて、俺は慌てて桃花のベッドから抜け出す。
桃花は幸せそうな顔で寝ていた。
誰にも部屋の出入りを見られないように注意して廊下へ出なくては。
俺はパパッとベッドの中で乱れた服を整える。
ふと部屋の中を見ると、大きな花瓶の中で、昨日俺が渡したヒマワリが元気に咲き誇っていた。
「そういえばヒマワリの花言葉ってなんだっけ?」
対局時の桃花の着物の色に合わせて、同じ黄色のヒマワリを選んだのだが、ふと気になってスマホで調べた。
『あなただけを見つめる』
俺はしばし、スマホの画面を見ながらフリーズした。
これ、そこはかとなくプロポーズっぽいな……
それで、桃花が『私もです』って言ったのか。
ヒマワリを選んだのは、花言葉は全く考慮に入れていなかったのだが……
合点が行った俺は、11本のヒマワリに見送られながら、まるで間男のように桃花の部屋を後にした。




