第32局 興信所って結構お金がかかるんですよね
【桃花視点】
「悪い。ちょっと、急用だ」
「こんな朝早くにですか?」
「ああ。オムレツとカリカリベーコンは焼けてるから、トースト焼いて食べてくれ。姉弟子の分もよろしくな」
「はい。いってらっしゃい師匠」
朝ごはんの支度をしていた師匠が、慌ただしくエプロンを畳んで出かけて行った。
「おふぁよ~。あれ、マコは?」
「急用だって言って、出て行っちゃいました」
師匠が外出したのと入れ違いに、髪がボサボサの寝起きのケイちゃんが起き出て来た。
「こんな朝に? 特に、対局もテレビとか取材の仕事も入ってなかったと思うけどな。あ、コーヒーありがと」
「どういたしまして。ケイちゃん、髪ボサボサだよ。ブラシかけてあげる」
私が淹れたコーヒーを口にして、ケイちゃんがホウッとあたたかい息を吐く。
私も、1人暮らしをして半年。
師匠の前では甘えて色々やって貰っている私だけど、実はちゃんと家事だって出来るのだ。
目の前の伯母弟子よりは。
「しかし、なんだろうね? こんな朝に用事って」
「さぁ?」
「あれ? 大好きな師匠の事なのに気にならないの桃花ちゃん?」
「師匠と私は、一緒に積み重ねてきた時間がありますから。その信頼は、こんなことで動じたりはしません」
「ふーん」
「ケイちゃん何やら残念そうですね」
「てっきり、桃花ちゃんの事だから、マコに根掘り葉掘り聞こうとするのかと思ってたから意外だなと思ってね」
「私はもうほぼ師匠の奥さんみたいなものなんです。亭主の秘密の一つや二つで、変に動揺したり、ましてや追及したりなんて余裕のない事はしないんですよ」
私は余裕をもって優雅に、コーヒーに口をつける。
こうした、やり取りがあったのが3日前の話だ。
【2日前】
「悪い。今朝もだ。おにぎりとみそ汁を作っておいたから食べてくれ」
「……行ってらっしゃい師匠」
【1日前】
「今朝もだ。行ってきま」
「ねぇ、師匠。連日、朝早くから昼前の時間まで、どちらに御用なんですか?」
「それはその……早朝研究会みたいな……」
「へぇ……なら、私も連れて行ってください。今は夏休みだし、私が一緒に行っても問題ないですよね?」
「う……まぁ……また今度な。じゃあ、急ぐから! 行ってきます!」
【そして今日】
「ねぇ、ケイちゃん。興信所に師匠の調査を依頼するから、契約書の保護者同意のサインをお願い」
「たった3日で決意の城が落城してるじゃない」
決意? 知らない言葉ですね。
勝負の場で、そんな戦場の美学みたいなものに囚われてる奴ほど、先に死ぬんです。
「お金は先日、初めての対局料が振り込まれてるから問題ないです。ケイちゃんは、ただここにハンコを押せば良いだけですから」
「弟子の初対局料の記念すべき使い道が、興信所への依頼だなんて知ったら、師匠のマコが泣くよ」
「だって、師匠ってば怪し過ぎるでしょ! 私が聞いてもはぐらかすし! 今日なんて、私に追及されるのを恐れて、書置きだけ置いて、いつもより更に早い時間に出て行ってるんですよ!」
ダイニングテーブルに置かれた書置きと、皿に盛られた私とケイちゃんの朝食プレートを指さしながら、私はケイちゃんに食って掛かる。
「まぁ、確かに何なんだろうね? 私も心当たりが」
「ケイちゃんは本当に、師匠の行き先に興味ないんですよね? ねぇ?」
「桃花ちゃん、目が怖いよ。パッチリクリクリお目目で睨まれると、ホント迫力あるな。本当に知らないよ、マコの行き先なんて」
私のギョロッとした目に射竦められたケイちゃんが、苦笑いしながら答える。
「きっと、誰か女に騙されてるんだ……師匠は、最近テレビにも出てて名前と顔が売れてきてるから……くそっ! ミーハー女どもめ」
思わず爪をかじりながら、私は自分の詰めの甘さを悔いる。
だが、時間と打ってしまった手は戻らない。
大事なのは、今の局面をどのように打開するかだ。
「マコに限っては、そんな心配いらないと思うけどなー」
「その心配を払拭するための興信所です。 大丈夫です。エッチなお店に通っているくらいの秘め事だったら、生涯、お小遣いなしの刑に処すくらいで勘弁してあげます」
「ああ。何が何でもマコとは結婚はして、生涯尻に敷くってことね。そういった方面には潔癖であるべき中学生女子にしてはかなり寛容な処置だね。けど、さすがに興信所は止めておこう」
「じゃあ、どうするんです?」
「明日、こっそりマコを尾行してみよう。その方が、面白……安上がりだし」
「なるほど……まぁ、夏休みですし可能ですね」
「よし、じゃあ決まりね。尾行用のアンパン用意しないと」
「なんで尾行だとアンパンなんです?」
「最近の子は知らないか……」
何故か、ケイちゃんが哀しそうな顔をしましたが、今の私は師匠のことで頭がいっぱいなので、アンパンでもチョコパンでも何でもいいやと思っていました。
◇◇◇◆◇◇◇
【翌朝】
早朝に、私は玄関の扉をほんの少しだけ開けて、隙間から隣の師匠のマンションの玄関扉を凝視する。
(キーッ……カチャカチャ)
玄関から師匠が出かけた!
「よし、今だ! ほら、ケイちゃん行きますよ!」
昨夜に私の部屋に泊らせて、まだ眠そうなケイちゃんを引っ張って、家の外へ出る。
そして、急いでマンションの階段を駆け下りて行く。
しかし、ここで一つ大きな誤算が。
「自転車⁉」
おかしい。
師匠は自転車を持っていないはず。
「あれって、子供を後ろに乗せる電動自転車だよね……」
輪をかけておかしいのは、師匠の乗っている自転車がただのママチャリやあるいはクロスバイクではなく、後ろの荷台がチャイルドシートのようになっているタイプの電動自転車だったことだ。
そんなタイプの自転車を独身男性の師匠が選ぶ訳がない。
「どういうこと……まさか……」
私は、自分の優秀な頭脳をフル回転させる。
私の頭の中に、何通りかの最悪な事態が想像され、夏だというのに私は全身の血の気が引いたように身体が冷えた。
「って、このままじゃ振り切られる!」
私が困惑している間に、師匠は自転車で走り出してしまった。
私は、すぐに走り出した、
「えー、ウソ。初っ端から走るの⁉」
私の後ろで悲痛な声を上げるケイちゃんの方は振り返らずに、私は師匠とのランニングで培った脚を躍動させて、師匠の自転車を追った。
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