第31局 こども部屋おじさんレベル100
「ここが、羽瀬覇王・名人の家か……」
「都内23区のど真ん中だけど、岐阜の田舎の私の実家くらい大きいですね」
東京の将棋会館から電車一本で行ける閑静な住宅街の中に、羽瀬覇王・名人の家があった。
将棋の名人と言われると、庭に松の木や、池に鯉が泳いでいる純和風な家の佇まいを連想するが、意外な事に普通の高級住宅だ。
「ようこそいらっしゃいました」
インターホンを押してしばらくすると、柔和そうな60代くらいの上品なご婦人が出迎えてくれた。
「初めまして。稲田誠と飛龍桃花と申します。本日は、羽瀬覇王・名人にご招待いただきありがとうございます。あの、こちら良ければどうぞ」
俺はすかさず、地元銘菓の生ナガヤンの入った紙袋を手渡す。
これは東海地方でしか中々手に入らないお菓子なので、お土産には最適なのだ。
「まぁまぁ。遠くからおいでいただき、ありがとうございます。さぁさ、どうぞ。あの子は上の部屋にいますから。王ちゃーん、お友達が来てるわよ」
唐突な王ちゃん呼びに、桃花と俺は思わず顔を見合わせる。
棋界の序列1位。
俺達のいる世界のトップの羽瀬覇王・名人を王ちゃんと呼べるのは、世界でこのお母さんだけだろう。
「ああ、来ましたか。いらっしゃい桃花先生。早速、上に」
「こら、王ちゃん。稲田さんにもきちんとご挨拶なさい」
「彼は、勝手について来ただけなんですがね」
「そういう事を言ってるから、うちに友達が遊びに来てくれないのよ。子供の時にもアナタったら」
「あー!あー!解りました! 稲田先生もようこそ我が家へおいで下さいました! じゃあ、これから研究だから部屋の扉は開けないでね、母さん!」
「はいはい。後でお茶をお持ちするわね」
そう言って、羽瀬覇王・名人はグイグイとお母さんをリビングの方へ押しやると、はぁ……とため息をつきながら、研究用の部屋へ俺と桃花を招き入れた。
「何だか、素の羽瀬先生ってこんな感じなんですね」
俺は半笑いで羽瀬覇王・名人に話しかける。
何度も、名古屋の我が家では会っているのだが、やはり実家という事で、色々と素が出てしまっているのが可笑しかった。
「何か言いたそうですね、稲田先生」
「いえいえ。何だか、桃花と同い年の男の子がお母さんに反抗しているのを見ているようで」
さっき、微妙に俺をシカトした意趣返しもあって、俺は意地悪く羽瀬覇王・名人の痛い所を突っついた。
「まったく、母親というのは困ったものです。いつまでもこちらを子供扱いして。そういえば、どこぞの師匠もわざわざ弟子にくっついてくる過保護ぶりでしたね」
「師匠として当然のことです。桃花はまだ中学生ですからね。けど、桃花はこう見えて一人暮らしをしているんですよ。誰かさんみたいに、いつまでも実家の子供部屋で寝起きしている訳ではないんです。こういう人の事を何と言うんでしたっけ? 子供部屋おじさんでしたっけ?」
「この家は、私が稼いだ賞金で建てた家ですが何か? 自分で建てた家に住むことの何が可笑しいというのですか?」
さすがは、羽瀬覇王・名人だ。
子供部屋おじさんでもレベル100だ。
しかし、いつもより早口でまくしたてる感情的な所を見ると、案外本気で気にしている事なのかもしれない。
「まぁ、私は家の事は師匠に甘えっぱなしですけどね。夏休み中は3食とも師匠にご飯を作ってもらってますし。それより早く始めましょうよ」
さりげないフォローを入れつつ、桃花が早く将棋の練習対局をしようと水を向けた。
中学生の女の子に諭された、いい歳こいた大人の男2人は、すごすごと矛を収めて準備を始めた。
◇◇◇◆◇◇◇
「美味しい~! 美味しいです明美さん」
「は~い。おかわりもあるから、たくさん食べて行ってね」
桃花がご馳走を頬張って喜色満面なのを、明美さんこと羽瀬覇王・名人のお母さんも嬉しそうに眺めている。
今夜は、羽瀬覇王・名人の家に泊まるということで、夕ご飯をご馳走になっているのだ。
練習対局のキリが良い所での夕飯なので、少し遅めの時間になってしまった。
「この、汁物。具沢山で良いですね。これって豚汁の具のすまし汁ですか?」
「そうなのよ。沢煮椀っていうの。今日は味噌豚焼きがあるから、味噌汁じゃない方が良いと思って」
「なるほど。野菜もいっぱいとれるし良いですね。出汁もしっかりしてて美味しい」
「嬉しいわ。この子ったら、いつも黙って食べるだけだから、作り甲斐が無いのよね」
「いつも心の中で感謝はしてますよ……」
羽瀬覇王・名人がバツが悪そうにしているのを見て笑いつつ、食事は和やかに進んだ。
「それで、桃花先生は明日はこちらの高校の見学に行くんでしたっけ?」
「はい。そうなんです」
桃花が、食後のデザートのフルーツを頬張りながら羽瀬覇王・名人の問いに答える。
俺はその時、お母さんと今日の献立のレシピをメモしている時だったのでだが、急に横で俺も気になっている桃花の進路についての話題がぶっ込まれて、思わずドキリとする。
「高校から東京に来るなら、この家に下宿して通えば良いですよ。ね? 母さん」」
「もちろん! 桃花ちゃんみたいな可愛くて食いっぷりの良い子だったら、いつでも大歓迎よ」
まずい……
羽瀬覇王・名人のお母さんの料理の腕前は、はっきり言って俺以上だ。
そりゃ、主婦業のキャリアが違うんだから、その経験値の差は絶望的で、比べるのがそもそも間違っている。
これでは、桃花の気持ちも東京行きに傾き……
信じて送り出した弟子が、都会の楽しさに夢中になり、東京に染まり……
そして……
「折角のご高配は大変ありがたいのですが、高校は地元の名古屋へ行こうと思っています」
桃花は、こちらの不安を他所に、キッパリと断った。
「へ? 桃花、東京に気になる高校があるからって……」
「明日の見学は、連盟の北野会長から請われて、見学に行くだけです。某棋戦のスポンサー様が運営している学校法人だから、無下に断れないみたいで」
俺の呆けた声に、桃花が苦笑いしながら内幕を語る。
それなら、先に言っておいてくれよ!
「しかし、桃花先生。東京在住ですと、研究会をする際に便利ですよ。女子高生が遊んだり、ええと……最新のお洋服を買ったりも出来ますよ」
まだ諦めきれないのか、羽瀬覇王・名人が追いすがるが、
「最新のお洋服って……王ちゃん、あなた対局のスーツと着物以外、お母さんの買った服しか着ないのに、若い女の子が好きなショップとか案内できるの?」
「母さんは黙っててください!」
お母さんに撃沈される羽瀬覇王名人。
時に、実家はとてつもないアウェーとなるという格言を地で行き、流石にちょっと気の毒になる。
「どこの高校に行くのかは、桃花ちゃんが決める事でしょ。きっと、名古屋じゃなきゃ得られない物があるのよ。ね? 桃花ちゃん」
「はい。私は、何より私の意志で道を決めてきました。これからも、そのつもりです」
桃花のはっきりとした物言いに、羽瀬覇王・名人が、まるで自身の投了を悟った時のように、肩を落としてシュンとしてしまう。
何でだか解らないが、「勝った」と俺は思ったのであった。
◇◇◇◆◇◇◇
「それでは、お世話になりました」
「いえいえ。大したお構いも出来ませんで。また、東京にいらした時はお気軽にお立ち寄りください」
翌朝。
桃花の高校見学に行くために、俺と桃花は朝食をいただいた後に出発する事となった。
「あの子ったらお見送りもせずに、寝てるだなんて……ゴメンなさいね。自由過ぎる子で」
「いえいえ。自由過ぎる方なのは慣れてますから」
「仲良くしてくれてありがとうね。名古屋に行く時には、あの子ったら本当に楽しそうでね。前日から私に、お土産で渡す東京で流行の百貨店のお菓子を買っておいてくれって言うのよ」
「アハハッ」
昨夜は桃花が東京には来ない事にがっかりしていたが、お母さんに聞く様子だと、まだ当分は、我が家に来てくれそうだ。
「あ、桃花ちゃん。最後にちょっと。こっちに来てこっち」
「はい?」
別れ際に桃花を呼んだ羽瀬覇王・名人のお母さんが、なにやらコソコソとしているが、俺はあえてそちらの方は見ないようにした。
◇◇◇◆◇◇◇
「なぁ桃花。別れ際に、羽瀬覇王・名人のお母さんに何か貰ったのか?」
義務的な高校見学を終えて、東京から名古屋行の新幹線に乗った所で、俺はふと思い出したことを桃花に訊ねた。
あの去り際にコソコソとするのは、お婆ちゃんが孫にこっそりお小遣いを渡す時のムーブだった。
固辞しようかとも思ったが、後で返礼の品でも送ればよいかと見逃していたのだ。
「明美さんにですか? いいえ。違いますよ」
「じゃあ、何だったんだ?」
「もし初恋が実らなかったら、羽瀬覇王・名人のお嫁さんに来てねって言われました」
「ぶふぉっ‼」
「流石は羽瀬覇王・名人を育てた人ですよね。読みが的確です」
「ある意味ではそうかもな……」
中学生相手に何言ってるんだあの人は……
やっぱり、天才というのは親も変わってるらしい。
いや、桃花の所の両親はマトモだったよな?
結局、天才というものはどんな環境から出てくるか解らないものなんだな。
と、俺は教育学者でもないのにそう結論付けるのであった。
今年最初のタイトル戦の王将戦がスタートしましたね。
相変わらず八冠つえぇ。
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