第26局 弟子には内緒
「あ~! マコしぇんしぇ~だ~! おはよ~ございまっす!」
「おはよう。葵ちゃん。久しぶりだね」
「体温正常ですけど、少し鼻水が出ます。先生よろしくお願いします!」
「はい、行ってらっしゃい。お仕事頑張ってくださいね」
「行ってらっしゃ~いママ」
伝達事項もそこそこに、葵ちゃんのママが玄関でパンプスを履き直して、園の玄関から駅へ向かう道を早歩きで向かうのを、葵ちゃんと一緒に見送る。
「葵ちゃん。何して遊ぼうか?」
「葵、園庭の遊具で遊びたい!」
「え~、暑いから中でブロック遊びとかしない?」
「だめ~! 葵、外が良いの~!」
「じゃあ、ちゃんと外遊び用の帽子を被ろうね」
「は~い!」
「他に外遊び行きたい人、手ぇあげて~」
「「「は~い」」」
3人ほどの園児が手を挙げた。
「皆、帽子を被ってからね。年長さんは自分で持って来てくださ~い。じゃあ、ちょっと外組は僕が担当しますね」
「暑いのにありがとうございます、マコ先生」
「おはようございます、里美園長先生。いえ、運動にもなって一石二鳥ですよ」
園長の里美先生に挨拶をしつつ、年少の男の子の鼻水が垂れているのでティッシュで鼻をかませる。
「本当に助かるわ。早朝シフトに入ってくれる男性パートタイム勤務の方って貴重だから」
「こちらこそ、本業の都合で突発的なピンチヒッター勤務しかできないのに置いていただいてありがとうございます。それでは、園庭へ行ってきます」
「行こっ! マコしぇんしぇ~!」
年少の子にコートを着せると、葵ちゃんたちが既に待っていて、俺の姿を見た途端、園庭に飛び出していったので、こちらも駆け出していく。
見ての通り、俺は将棋の棋士のかたわら、保育園で働いている。
将棋の棋士は、将棋連盟に勤めるサラリーマンではなく、棋士一人一人がフリーランスの個人事業主なので、こういった副業は割と自由にできるのだ。
他の棋士でも、大学で研究者をしていたり、はたまた難関の国家資格を取って士業事務所で働くなんて人もいる。
俺はパートタイム勤務で、対局にさわらない日の変則的な勤務しかできないのだが、そこは園長先生に配慮してもらっている。
本当にありがたい。
「おはようございます、マコ先生」
「あ、おはようございます、さゆり先生。今日は、早番勤務なんですね」
「はい」
ニッコリと笑う、宇内さゆり先生は、ジーンズに割烹着という動きやすい服装だ。
さゆり先生は、数少ない話しやすい先輩保育士先生で、今日のシフトはやりやすくて良かったと、内心ホッとする。
ちなみに『マコ先生』は下の名前の誠から来ている。
園では、園児も下の名前で呼び合うので、自然と保育士側も下の名前呼びが多いのだ。
だから、俺も宇内先生ではなく、さゆり先生呼びである。
「その割烹着、新しいのですね」
「流石、マコ先生はお目が高い。保育士の専門通販で購入した、今日おろしたての新品です。マコ先生も、いつものエプロンかと思いきや、新しいアップリケが増えてますね」
「お~、さゆり先生もさすが、園児の異変を見逃さない観察眼の高さですね」
「先輩ですから」
エッヘンと、さゆり先生は胸を張ってみせる。
「じゃあ、早速園庭に行きましょう」
「いや、園児たちのことはバイトの僕に任せて、さゆり先生は行事の活動準備とかをされては如何ですか?」
「ズルいですよマコ先生! 朝一の元気な子供たちを独り占めして……私にも分けてください」
不平を言うさゆり先生が口を尖らせて、俺に抗議してくる。
だが、悲しいかな。
全く迫力は皆無であり、可愛らしさしかない。
小柄な体躯のさゆり先生は、正真正銘の保育士先生なのだが、仕事柄から化粧っ気も薄いせいか、少女然とした印象を受ける。
セーラー服を着たら、桃花の同級生って言っても通用しそうだな……と、つい朝から邪な事を考えてしまい、慌てて煩悩を頭から振り払う。
「大丈夫なんですか? 園長先生に怒られちゃうんじゃ……」
「大丈夫です! 先輩の私が言う事は絶対ですよ、マコ先生! だから、一緒に子供たちと遊びましょう!」
パワハラまで可愛いとか、何というか……可愛過ぎである。
世の中のパワハラが全て、さゆり先生みたいなのだったら、きっと世界平和も夢じゃないだろう。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい。いざ!」
さゆり先生と俺は、腕まくりをして、園庭ではしゃぎ回る子供たちを追いかけ回した。
◇◇◇◆◇◇◇
「行かないで~ マコしぇんしぇ~」
時刻は、10時過ぎ。
保護者達が次々と子供たちを園に預けに来る慌ただしい時間が終わって一段落するタイミングで俺の勤務は終了だ。
エプロンを取って帰り支度をしていると、俺が帰るんだと察した葵ちゃんが、俺のふくらはぎにコアラのようにしがみ付いて来る。
「また今度来るね、葵ちゃん」
「次はいつ来るの~?」
「ん~、次はいつかな~ けど、また会えるよ」
「え~、なんでマコ先生は毎日、保育園にいないの~? さゆり先生や里美園長先生は毎日いるのに~」
う……
そこを言われると、少し辛い。
もっとシフト増やすか……
「ほらほら葵ちゃん。マコ先生も、これから別のお仕事があるんだよ~」
さゆり先生が葵ちゃんを抱き上げて諭してくれる。
「え~、マコしぇんしぇ~ 何のお仕事してるの~?」
「ん? 棋士だよ」
「えっ⁉ 稲田しぇんしぇ~ お姫様を助けるナイトの人なんだ! ステキ~!」
その騎士じゃないんだよな……
棋士の世の中の知名度なんて、こんなもんです。
まぁ、今は手のかかるお姫様のお目付け役をしているのだから、騎(ナイ
)士でもおかしくはないのかも。
「ね! 素敵なお仕事だよね葵ちゃん」
「え、さゆり先生も僕の仕事のこと知らないんですか?」
この保育園に勤め始めた時に本業で棋士の仕事をしていることを説明したり、今も地方局とは言え、テレビに出たりしてるんだけどな。
俺に全然興味ないのかな、この人……
ちょっと凹む……
「誰かのためになる仕事はそれだけで尊いんですよ」
「まぁ、そうですね」
「だから、午後のお仕事もお互い頑張りましょう!」
「はい。ありがとうございます、さゆり先生」
さゆり先生が、先輩として良い事言ったった! とドヤ顔でフフンッ!と得意げに胸を張る。
「さゆり先生。お忘れではないと思いますが、来月の行事計画の企画書は今日が提出期限ですよ」
「ほわっ⁉ 里美園長先生! は、はい……今日中には何とか……」
里美園長先生がニコニコしながら、いつの間にか、こちらに来て声を掛けてきた。
さゆり先生は、背後から声を掛けてきた里美園長に驚いてビクッ! と肩を震わせた後、先ほどの先輩然とした態度は見る影もなく萎んでいく。
「あの……マコ先生、ちょっと手伝」
「それでは、勤務時間を過ぎてますから、マコ先生は早く上がってください」
俺に手伝って欲しそうだったさゆり先生の言葉を、園長先生が被せて、俺へ退勤を促す。
さすがは里美園長先生。
管理職として、労務管理もばっちりだ。
俺に手伝ってもらうのを諦めたさゆり先生は、トボトボと職員室に戻って行った。
「それでは里美園長先生。私はこれで」
「はい、お疲れさまでした。マコ君、最後にちょっとだけ」
「もう僕もいい歳なんで、マコ君呼びは止めてくださいよ」
「ゴメンね。けど、マコ君の事は保育園児の頃から知ってるからついね。オシメだって私が替えたのよ」
「それ、こっちは何も言えなくなる無敵カードなんで使うの止めてください」
子供の頃に文字通り尻を拭ってもらっていたら、どれだけ偉くなろうが、その人には一生頭が上がらない。
「思い出すな~ 菜々子さんが毎朝、園に出勤する時に一緒に園に来てたマコ君」
「母と毎朝登園してましたから、みんなより少し早く登園できるのが役得でしたね。おかげで、新しい人気のある本も読み放題でした」
「年長さん頃には、もう将棋しかしてなかったけどね。集中してると周りの音が聞こえなくて、しょっちゅう先生に怒られてたわね」
「変な園児ですいません」
「それが、こうしてプロの将棋の棋士になってるんだものね。今はお弟子さんもいて」
「そうですね」
「けど、マコ君が、ここに未だに来るという事は、やはりこっちの道も諦めきれていないのね」
「……そうですね。いずれはケジメをつけないとと思ってはいるのですが」
棋士になるという道を選んだ時点で、その道を自ら閉ざしたと考えた。
けど、棋士になれても。弟子を取っても、それでもくすぶる俺の夢。
「私はいつでも構わないから。けど、私が隠居する前にはお願いね。私だって、あと数年もしたらお婆ちゃんなんですから」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
決断しきれない俺に、里美先生は笑いながらも、きちんと期限を設ける。
これもまた優しさなのだと思いつつ、俺は保育園から直接テレビ局へ向かうべく、駅へと向かって歩いて行った。
時刻はそろそろ、桃花と右京五段の対局が始まろうかという頃合いだった。
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