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第23局 棋士として体力づくりは大切

「ほん~~~~っとに、ありがとう! 稲田君」


 電話の向こうで、北野会長が半ベソをかきながら俺に最大限の感謝の言葉を伝えてくる。


「何とか前夜祭開始ギリギリには間に合いそうで良かったですね」


 東京の老舗ホテルで行われる名人戦第一局の前日に、まさかの名古屋で練習対局をしていた羽瀬覇王・名人を、あの後追い立てるように名古屋駅まで走らせて、新幹線に押し込んだのだ。


 その後、到着予定時間を北野会長に電話して、東京駅に迎えを寄越してもらうように手筈を整えたのだ。


「しかし、あの野郎……まさか、桃花ちゃんと練習対局するために名古屋まで来てたとは……前日のイベント対局で、あんな年下の女の子に気を使われたのが、よほど悔しかったんだろうな」


「羽瀬覇王・名人は、その点には触れずに対局してましたよ」


 恐らく聞いた所で、桃花が気を使って敗着の手をわざと打ったとは、死んでも言わないと解っていたのだろう。


「で、練習対局の結果はどうなったんだ?」


 無事に羽瀬覇王・名人が見つかり、前夜祭にも間に合いそうだという事で安堵した会長が、雑談を振るように聞いて来た。


「研究会や練習対局の内容は、研究会の内部だけに留めるのが原則ですよ会長」


「おっと、そうだった。けど、気になるじゃないか」

「まぁ勝敗位ならいいですかね。先手番の羽瀬覇王・名人が勝ちました」


「そうか。まぁ、棋界トップとピカピカの新人の四段なら、当然の結果と言えば当然か」

「棋譜はお見せ出来ませんが、あれは間違いなく名局でしたね。タイトル戦の棋叡戦と同じ形式でやりましたし」


「は⁉ 各3時間の持ち時間でか⁉ 2日制の名人戦の前日にそんな長丁場の練習対局するとか、アイツ馬鹿か!」

「まぁ、有り得ないですよね。私も、つい興奮して覇王名人に『走れ!』って言っちゃいましたもん」


 歯に衣着せぬ北野会長の言葉に、思わず俺も苦笑しながら同意する。


「お、無事に羽瀬が東京駅に着いたと連絡があった。前夜祭が終わったら、あの野郎にはみっちり説教しとかないとな。本当にありがとな稲田くん」


「いえいえ」


 そう言って、会長の電話が終わった。

 まるで嵐のような一日だった。


 今日は、桃花も珍しく疲れたから先に休むと、夕飯が終わって早々に自分の部屋に戻っていた。


 やはり、長い持ち時間の対局で、しかも相手は羽瀬覇王・名人だったのだ。

 疲れて当然だろう。


 記録係をしていた俺も正直疲れている。


 だが、今すぐベッドにダイブしたい衝動を抑えて、俺は書斎でパソコンデスクの前に座った。

 すでに、先程の棋譜データはパソコン側にもコピーしている。


 先程の桃花と羽瀬覇王・名人の対局は、まさに名局だった。

 天才と天才がぶつかりあった果てに生まれた激闘の跡。


 その宝の山を、最初から最後まで見届けた唯一の第三者である自分が一早く、その内容を紐解ける。


 その事に、俺は一棋士としての興奮を抑えきれずにいた。




◇◇◇◆◇◇◇




「おはようございます師匠」


「おはよう桃花。今朝はえらく早い……なんだその恰好?」


 翌朝。


 昨夜遅くまで研究をしていて少し睡眠が足りていない目を覚ますために、冷水で顔を洗っていた所に、桃花がこちらに来た。


 春休み中の今は、起き抜けのパジャマ姿でいつもより寝坊気味な時間に起きてくる桃花だが、今日はトレーニングウェアを着ている。


「何ってランニングの格好ですよ。今日も走るんでしょ?師匠」

「ただ走るのは好きじゃないって言ってなかったか?」


「いいじゃないですか別に」


 プイッと桃花は顔を背ける。


 昨日、羽瀬覇王・名人に言われた体力面の話を受けてだろうなと、すぐに見当がついたが、俺もその点には触れずにおく。


「俺がいつも走ってるコースで良いか? 道中で買う飲み物代は持ったな?」

「はい。バッチリです!」


「じゃあ行くか」


 弟子がせっかくヤル気になっているなら、師匠としてはそっと見守るくらいしかできない。


 そういう意味では、どんな世界でも師匠が弟子にしてやれる事なんて、たかが知れてるよなと思いながら、俺と桃花は玄関の外に繰り出した。




◇◇◇◆◇◇◇




「ぜひゅー! ぜひゅー‼」

「お、来た来た。桃花、こっちだこっち」



 ランニングの折り返し地点にしている県立都市公園内の池のかたわらにあるベンチで待つこと15分ほど。


 ようやく桃花が追いついて来た。


「し、師匠……水……」

「ほら。先に買っといたぞ」


 息も絶え絶えといった様子の桃花に水のペットボトルを差し出すと、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に半分ほどを飲み干した。


「あんまり一気に飲むとお腹がチャポンチャポンになって走れなくなるぞ」


「まだ走るんですか⁉」

「ここがちょうど折り返し地点だからな」


 この公園が俺のいつものジョギングコースの折り返し地点だ。

 気分によっては、公園内のランニングコースを回ったりもする。


「師匠ったら、本当に置いて行っちゃうんですもん」

「すまん。落伍してるのに気づかなかった。ついランニング中は考え事をしてたりするからな」


 走っている最中は、動的瞑想というか、頭の中は無に近いか、苦しさを紛らわすために他の事を考えたりしている。


 今日のランニング中は、昨日の桃花と羽瀬覇王・名人の対局について、検討の続きをしていたのだ。


「最初はほんの少しの距離の差で、後ろから、汗ばんでTシャツが張り付いて僅かに透けて見える師匠の艶めかしい背中を嘗め回すように見るために必死にペース合わせてたんですけど、あっという間にガス欠して置いて行かれました」


「師匠に、艶めかしいとかいう形容詞を使ったのは、恐らくお前が地球上で初めてだろうな」


「いえ、それほどでも」

「褒めてないわ」


 俺は照れ隠しにグビリと水のペトボトルをあおる。


「綺麗な公園ですね」

「遊具とかは無いけどな。自然いっぱいで公園内を散策しても楽しいぞ」


「じゃあ、私は初めてなので一緒に散策しましょう師匠」

「ああ、いいぞ」


「やったー♪ 師匠と公園デートだ」

「へたり込んで休むより、散歩がてらウォーキングするアクティブレストの方が、足の回復が早いからな」


「そうやって、あくまでデートじゃない体にする頭の回転の速さは流石ですね師匠。でも照れてる言い訳だって、私は解ってますから」


「出来れば将棋での頭の回転について褒められたいね。ほら、行くぞ桃花。帰りは遅いペースでも良いからまたランニングで帰るからな」


「うへぇ~~い」


 気の抜けた声を上げながら俺の後をついてくる桃花を見て、これが師匠の背中を見せるってことなのか? いや、思ってたのと違うな……


 と思いつつ、俺たちは公園の散策コースで新緑の中でリフレッシュした。


 季節は春。


 いよいよ始まりの季節だ。


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