第22局 女性が棋士になれない理由
「ただいま~。や~疲れ」
「姉弟子、シッ!」
俺は、用事を終えて帰って来た姉弟子に静かにするように指を口元に立てて注意する。
「なによマコ? って…………ヴェ⁉ なんで羽瀬覇王・名人が家に居るの⁉」
姉弟子は大声を出しそうになって、桃花と羽瀬覇王・名人が対局中である様子を見て、慌てて口に手を置く。
「ちょ……マコ。何がどうなってるの? なんで羽瀬覇王・名人が家に来てるの? 昨日のイベントでの御礼参りとか?」
「いや、そういう訳ではないんです。ただ練習対局をしたいと羽瀬先生がいらして」
不安そうに聞いて来る姉弟子に、俺も戸惑いを隠せないという感じで答える。
「で、何でマコが記録係なんてやってるの?」
「気付いたら、このポジションに収まってて……残り30秒ぅ~」
コソコソ声で心配そうに姉弟子が訊ねるのに返答しつつ、終盤で1分将棋となった秒読みを行う。
すでにお互い3時間の持ち時間を使い切り、1分将棋となっている。
勝負は大詰めだ。
「なんというか……とことんモブ役の人生ねマコは」
「うるさいですね! 残り10秒ぅ~9、8」
パチリと桃花が手を指した。
「で、これって何局目なの?」
手番が羽瀬覇王・名人に移ったところで、再び姉弟子が俺に訊ねる。
「いえ、一局目です。なにせ持ち時間が各3時間ですから」
「は⁉ 練習将棋で指す持ち時間じゃないでしょ」
「羽瀬覇王・名人は、長考好きだからですかね」
これだけの長い持ち時間でやりたいと言ったのは、やはり桃花の力を正確に測りたいという所なのだろうか。
そんな事を考えていると、羽瀬覇王・名人が残り30秒の読み上げ前に手を指した。
「負けました」
駒台に右手をかざし、即座に桃花が投了を告げる。
まだ、詰めろが掛けられていないのに、やけに潔く桃花は投げた。
「あ~、一手一手の状態から抜け出せなくなった」
桃花は、座布団の横に置かれた、すっかり温くなった湯呑のお茶をグイッと一気に飲み干す。
一手一手とは、相手の攻めの方が早い状態が続き、このまま指し続けても、先に自玉が詰むと見限った状態のことで、覇王・名人が最後に指した手で、見込みなしと桃花は判断したということだ。
「すぐに感想戦はやれそうですか?」
「はい大丈夫です。すぐやりましょう」
息を吐いた羽瀬覇王・名人が気遣うが、桃花はお茶で一息ついてヤル気満々なようだ。
やせ我慢している様子も無いので、俺もなにも言わないで見守る。
「フフッこれは頼もしい。タイトル戦だと、よく私の対局相手は、勝っても負けても茫然自失なことが多いので」
「それじゃあ、104手目の変化からですかね?」
「そうですね。そこに色々と面白い物が埋まっていそうだ」
羽瀬覇王・名人は心底嬉しそうな顔で、感想戦を始めた。
正直に言って、記録係として棋譜を眺めて、俺も真剣に検討をしていた。
こんな間近で、羽瀬覇王・名人の、恐らくはタイトル戦並みの本気の対局を眺められるなんて、貴重な経験だったからだ。
けれど、俺には何故104手目が分かれ道だったのかがすぐには解らなかった。
時間をかけて考えれば、俺にも意味が解ってくる。
だが、羽瀬覇王・名人と桃花の感想戦の会話のスピードに全くついて行けない。
理解が追いついて行かず、俺だけ置いてけぼりにされる。
「AIの見解も聞いてみたいです。師匠、104手目で桂を跳ねた場合の評価値はどうなりますか?」
「あ、ああ。えーと……」
俺は記録を取っていた手元のタブレットで棋譜を遡る。
「確かに104手目で後手の桃花が飛車を成った手より、桂を打った方が後手良しに形勢が傾くな」
「あ~、やっぱりそこだったか……もう残り時間も無いしで、焦って龍を作ったのが敗因ですね」
「桂を指されていたら、その先に私の王に詰みが生じていましたね。非常に難解な詰み筋ですが」
「30手先ですよね? わぁ~もったいない……勝ち筋あったのかぁ~」
桃花は頭を抱えて悔しそうにしている様子を、羽瀬覇王・名人は、嬉しそうに見ている。
覇王・名人たる自身をして難解と言わしめる難解な詰み筋に、桃花が即座に反応しているのが嬉しかったのだろう。
ちなみに俺には、その詰み筋はまだ見えていない。
くそ……後で研究しないと。
「おっと。もうこんな時間ですか」
外が暗くなり始めている事にようやく気付いた将棋界のヒーローは、のそりと立ち上がる。
「駅までお送りしますよ」
「結構ですよ。また来るので、自分で歩いて道順をしっかり覚えておきたいので」
「え⁉ また来るんですか⁉」
俺は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
聞きようによっては、こちらが迷惑がっているような物言いになってしまった。
「ええ。さすがに飛龍先生を東京に来させるのは気が引けますからね」
羽瀬覇王・名人の方も微妙にピントがずれた返答をする。
あ……もう、来ること自体は決定事項なんですね。
まぁ、棋界のヒーローに否や何て、平の棋士の俺に言える訳はない。
「飛龍先生、最後にアドバイスを」
「桃花でいいですよ、羽瀬先生」
「では、桃花先生。出来るだけ、体力をつけるようにしてください」
どんな将棋のアドバイスが羽瀬覇王・名人からいただけるのかとワクワクしていたが、意外な話にちょっと拍子抜けしてしまう。
「タイトル戦は長丁場です。今日は1日制で、最も短時間で終わる棋叡戦想定でしたが、最後の終盤は体力が足りないと、必ず思考にも影響が出てきます。先ほどの桂打ちからの詰み筋の見逃しのようにね」
「……はい」
桃花は、先ほどの敗着の手を思い返して押し黙る。
いや、正直あれは難解で高度な局面すぎて、敗着の一手とは言えないと思うんだが……
「頭脳競技である将棋において、女性のプロ棋士が未だに桃花先生を含めて2人しかいない理由は、私は男女の体力差に一因があると思っています。まぁ、女流棋士が最後の関門である三段リーグを勝ちきれないのは、女流棋士としての対局で棋譜を残し過ぎてしまって、それを対戦相手の他の三段に研究されてしまうから、というのも原因として大きいですが」
ここで、羽瀬覇王・名人が、非常にセンシティブな男女差の内容に触れた。
マスコミを前にしたコメントでは、いつも品行方正なことしか言わないのに……
女流棋士として活躍した姉弟子は、複雑そうな表情を見せる。
「……今のは、覇王・名人という立場で言うべきお話では無いかと思います」
桃花も、姉弟子を慮ってか抗議の声を上げる。
「ああ、失礼。つい公式の場ではなかったもので。昨日今日と嬉しいことが立て続けに起きて、つい口が滑らかになりすぎてしまった。あくまで私が伝えたかったのは、前者の体力の男女差についてです」
「体力なら自信がありますよ。中学のバスケ部の助っ人をしてますので。体育の成績も5でした」
「ハハハッ! そう言えば、桃花先生は中学生でしたね。盤上での強さから、つい忘れてしまっていました」
この人って、こんなに笑う人だったんだ。
同じ棋士なのに、今まであまりにも遠い存在だったが、そこには等身大の羽瀬王毅が笑い転げていた。
「あれ? そう言えば羽瀬先生。明日ってたしか……」
ここで、姉弟子が何かを思い出したように、羽瀬覇王・名人に問いかける。
「ああ。名人戦の第1局ですね」
事も無げに、羽瀬先生が答える。
ここで、俺と姉弟子は血の気が失せた。
「対局の前日は、対局場の検分や前夜祭があるでしょ! 何してるんですか⁉」
「ああ。どうせ第1局の会場は東京だから、当日移動でいいやと思って、うっかり前夜祭の存在を忘れてました。あ、スマホのバッテリーも切れてますね」
きっと関係者が、対局前日なのに所在不明になった主役の安否確認でスマホを鳴らしまくり、充電が切れたのだろう。
今頃、対局会場は大パニックで方々を探し回っている事だろう。
まさか、当の本人は単身で名古屋に居るだなんて夢にも思わず。
「か、会長に電話しないと!」
「私、すぐに東京行の新幹線の発着時刻を調べます‼」
「羽瀬先生。ぼやぼやしてないで早く靴履いて! 走れ!」
こうして、将棋のヒーローは半ば追い出されるように、我が家を後にしていった。
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