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第21局 推しの棋士が家に居る⁉

「ぬぉぉぉぉ! 桃花、来客用の高級お茶の葉ってどこにしまってたっけ⁉」

「ストック調味料を置いてる棚じゃないですか?」


 っていうか、台所を仕切っているのは俺なんだから、お茶の保管場所も俺が知っていて然るべきなのだが、相当テンパっているため、当たり前な思考が出来ない。


「師匠、ちょっとは落ち着いたらどうですか?」


「だってお前……羽瀬覇王・名人だぞ、おい!」


俺は、チラリと盗み見るように、リビングの床に敷いた座布団の上に、羽瀬覇王・名人が所在なさげに座っている様子を伺う。


 ヤベェ……推しの棋士が俺の自宅にいるのヤベェ!

 何とかして、この光景を写真に収めておきたい。


「昨日もネットテレビ局のスタジオで会ったじゃないですか」

「そういう問題じゃない!」


 ようやく見つけた高級緑茶の袋の封を切り、俺は慌ただしく来客用の湯呑にお茶を淹れる。


「そ、粗茶ですが」

「どうぞ、お構いなく」


 短い言葉だが、将棋とは関係ない会話をしただけで、ちょっと感激してしまう自分がいた。


 羽瀬覇王・名人は、今は30代前半くらいだが、姿形は若々しい。

 20歳という若さで全てのタイトル8冠制覇を達成した頃の姿と、あまり変わっていない気がする。


「それで羽瀬覇王・名じ……ちょっと、呼び方が長ったらしいので、羽瀬先生って呼んでいいですか?」


「ちょ⁉ おま……桃花⁉」


 お前、まだ四段になりたてのペーペーの癖に、何言ってんの⁉

 相手は、棋界序列トップだぞ!


 タイトルの中でも別格上位の覇王と名人の両方を持ってる人なんだから!


「それでいいですよ飛龍先生」


 俺は1人で青くなったりしていたが、当の本人は特に気に障った様子もないようだ。


「あと、今度から来る時は、前日までに連絡下さいね。いきなり、今、名古屋駅まで来てるって連絡が来て、ビックリしましたよ」


 ウォーーイ⁉

 開口一番、ダメだし⁉ 覇王・名人に⁉


「それはすみませんでした飛龍先生。以後、気を付けます」


 ポリポリと頭を掻きながら、羽瀬先生が苦情を言う桃花に謝罪する。


 無礼を働く桃花の師匠として、もう、どこから羽瀬先生に謝れば良いのか解らなくなった俺は、取り敢えず諸々の事は全て棚上げにして、まずは聞きたかったことを聞くことにした。


「羽瀬先生は都内にお住まいでしたよね? なぜ、名古屋くんだりまでいらしたのですか? 何か他に用事が……」


「ええ。昨日の対局のワクワクで居ても立っても居られなくなって、起きたらすぐに支度をして新幹線に飛び乗ってきました」


 え! この人、桃花と練習対局するために、わざわざ東京から名古屋まで来たの⁉


 この人はこの人で、やっぱり変わってるな。

 天才って本当に、凡人には理解しがたい行動をとるな。


「というか、羽瀬覇王・名人は桃花の連絡先をよく知ってましたね」

「昨日の対局が終わった時に、練習対局をしたいと飛龍先生に申し込みました」


「昨日の対局が終わった後に、メモ書きに書いた連絡先渡されたんですよ。今時、電話番号だけで笑っちゃいました」


「自分は、SNSとか、そういうのは苦手なので」

「羽瀬覇王・名人から誘ってたんですか……」


 てっきり、桃花が怖いもの知らずで、羽瀬覇王・名人に練習対局のお願いでもしたのかと思った。


 意外感から言葉を無くしていると、俺の横に座る桃花がチョンチョンと俺の服の袖を引っ張る。


 なんだ?


「師匠。前にも言ったでしょ? 私ってば、結構モテるんですから。ボーッとしてると、別の殿方に掻っ攫われちゃいますよ」


 桃花が愉快そうに、俺に耳打ちしてくる。

 いや、この場合は、通常のモテるとはまた違うと思うんだが……


 現代の棋士はAIを相手にした研究が主流で、個人プレイが可能なので一昔前ほど、他の棋士と研究会や練習対局を指すというのは少なくなっては来ているが、それでもプロ棋士同士の対局は行われて来ている。


 だが、プロ棋士同士の研究会や練習対局は、実力が無ければ、或いは何かしらのメリットがお互いに無いと成立しない。


 プロとして、そこは残酷に相手の事を評価し合っている。


 故に、


『もし断られたらどうしよう……』

『でも、あの人がどうしても気になっちゃう』

『あの人は、私の事どう想ってくれてるのかな……』

『今日こそは勇気出して言わなきゃ!』

『あ~あ……また今日も言えなかった……』


 という感じで、研究会や練習対局に初めてプロ棋士を誘う時には、まるでラブコメの告白なみに緊張するものなのだ。


 ちなみに俺は、多くの棋士が東京か大阪に住んでいる中、東海地方在住なためか、中々その手の集まりには呼ばれない。


 まぁ、今、目の前で同じ名古屋在住の桃花が誘われていたという事実がある訳だが……。


 要は、羽瀬先生が、わざわざ自分が新幹線に乗ってまでくる価値があると、桃花を評価してくれているという事だ。


 その事実に、俺は今更ながら戦慄していた。


「じゃあ、早速なんですが飛龍先生。いいですか?」


 羽瀬覇王・名人は、まるで将棋を覚えたてで、早く家で本を読んで習った戦型を試したい将棋道場のような子供のように、ウズウズを抑えられないという顔で桃花を急かす。


 この人は、本当に将棋が好きなんだな。


「はい。持ち時間はどうしますか?」

「そうですね……」


 ここで、羽瀬覇王・名人はしばらく、手を口元に当てながら考え込む。


 俺は、その間に羽瀬先生から頂いたお菓子の箱を開ける。

 って、思いっきり中身は名古屋土産の味噌まんじゅうなんだが……


 いや、地元民はあまり食べないし、ましてや最上級グレードの物なんて食べた事ないから嬉しいっちゃ嬉しいんだけどさ。


 さては、羽瀬覇王・名人は手土産が必要と思いついたのが、名古屋駅に着いてからだったんだな。

 将棋以外は抜けていて、何やかんや人間臭いところもあって少し安心する。



「では、タイトル戦と同じで」


 リビングの床に盤を置いて対局の準備をしていた桃花と、お茶菓子の準備をしていた俺が固まる。


「タイトル戦と同じ持ち時間という意味ですか?」

「練習対局ならば、持ち時間は30分か長くとも1時間ずつというのが通常では?」


 桃花が訝しげな声で羽瀬先生に聞き返し、俺もつい口を出してしまった。


「昨日のお遊びとは違う真剣勝負です。流石に2日制は無理なので、1日制のえい戦に則って持ち時間各3時間のチェスクロック形式で」


「ちょっと待ってください羽瀬先生。まだ桃花は、初めての公式戦すら経験していないのに、いきなりタイトル戦形式だなんてそんな……」


「どうしますか? 飛龍先生」


 羽瀬先生は、俺の忠告なんてまるで聞こえていないという風に、目の前にいる桃花だけを見つめて語り掛ける。


 ひとたび盤を挟んだら、周りの雑音はまるで耳に入らないというほどの異常な集中力と気迫。


「良いですよ」


 桃花は、短く是の回答を返す。


「ありがとうございます。飛龍先生は、何も研究の準備もされていないでしょうから、ここは先手番は譲りましょう」


「いいえ。昨日の対局では私が先手番だったので、私の後手番で。これはタイトル戦と一緒なんでしょ?」


 桃花の挑発とも取れる言葉に、俺はハラハラしてしまう。


「貴女は、本当に良いですね」


 羽瀬覇王・名人はそう言って笑いながら、大人しく初手を指した。


 角換わり模様から、未知の局面へ桃花が進める。


 桃花の武器は、何と言っても終盤力だ。


 将棋の序盤中盤は、どれだけ定跡に精通しているか、事前研究をどれだけ積めたかが物を言う世界。

 謂わば、努力でどうにかなる領域だ。


 しかし、対局の終盤にさしかかると、盤面は混沌となる。


 枝分かれした分岐は、もはや研究で全てのパターンを網羅することは不可能であり、また劣勢の相手は、相手に間違えさせるために意図して複雑な盤面となる手を指す。


 持ち時間も少なくなった中、結局最後に勝利の決め手になるのは、盤面の前でその場で考える力だ。


 そして、その力は、単純に言えば脳の回転の速さとも言い換えられる。

 どれだけ先まで、正確に読めるか。


 この部分は、純粋に才能と呼べる領域だ。


「よく研究していますね……」


 思わず羽瀬覇王・名人が言葉を漏らす。


 桃花の研究外しの手についてのリアクションだろう。

 研究外しの未知の手は、単に定跡から外れる手を指せばよいわけではない。


 その手がすでに相手に研究されているものであったなら、ただの悪手でしかない。

 定跡を外すためにも、結局は深い研究があってこそなのだ。


 羽瀬覇王・名人は、足元を崩して長考模様に入る。


桃花は身じろぎ一つせずに、盤面を見つめ続ける。


 チェスクロック形式ならば、記録係は必要ない。

 強いてあげれば、1分将棋になった時に残り時間の秒読みをする程度か。


 けど、俺は記録係を頼まれた訳でもないのに、結局最初から最後まで対局を見届けることになった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 本当のところは知りませんけれど、谷川・羽生・藤井と続く系譜では、それぞれがあまりに強すぎて、両雄並び立つようなライバルっていなかったんじゃないかと思います。 余りに突き抜けた強さを持つと、…
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