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盤外編4 雫……恐ろしい子!

「ぐすっ……寂しい」



 まるで、自分の身体の半身をもぎ取られたような喪失感。

そのキズはしばらく経っても癒えることはない。


 解かっている……。

 これは、俺だけが味わっている痛みではないことは。


 歴史に名を残した先人が、味わってきたのと同じ痛みだと知っている。


 年鑑にたった一行で示される事が、いざ自分の身に降りかかるとこんなにも辛いものだと知らなかった。



『みんな、そうだから。でも、みんな立ち直ってるだろ?』


『誠九段の場合はちょっと早かったけど、でもこれは避けようが無いことだから』



 そうやって、外野は慰めの言葉を掛けてくる。

 でも、そんな言葉が届かないほどに、俺の受けた傷は深くて痛くて……。


「ほら、いつまでメソメソしてんの誠君。娘の穂乃花が、羽瀬先生宅で住み込みになったからって。名人位を私に奪取された時より落ち込んでるじゃない」


「と、桃花~。だってよ……。グズッ」


 桃花から渡されたティッシュで涙にぬれた目元と、垂れた鼻水をかむ。


「また、穂乃花と雫たちが小さい頃のアルバム見て泣いてる。娘離れできてなくて情けないお父さんね」


 呆れたように、俺が押し入れから引っ張り出してきたアルバムを桃花が片付ける。


「だ、だってさ……。こんな早いとは思わないじゃんか」


 春休み恒例の、穂乃花の師匠である羽瀬先生宅での合宿から帰ってくると、穂乃花から、4月から東京の羽瀬先生の家に住み込みで修業をすると、一方的に宣言されてしまったのだ。


 無論、父親である俺は断固反対した。


「まぁ、私が師匠の家に転がり込んだのは中学2年生の頃だったから、私より1年早かったね」


「くそ……。母親である桃花の前例があるばかりに」

「アハハッ! 穂乃花も、恋したら真っすぐだからね。そこは私に似たかな」


 穂乃花が家を出てしまった原因へ嫌味を言ったつもりだったのに、妻である桃花は俺の真意にまるで気づいていない。


「ちくしょう……。俺をハブにして、先に外堀埋めやがって……」


 娘の穂乃花が俺に東京行きを宣言した時には、すでに外堀は埋められてしまっていた。

 羽瀬先生はもちろん、奥さんのさゆりさんも羽瀬先生のお母さんの明美さんも、穂乃花が同居することに大賛成。


 そして、俺と一緒にタッグを組んで反対すべき桃花は、当初から歯切れが悪く、反対らしい反対をほとんどしなくて、穂乃花の東京行きを認めてしまった。


 結果、俺は四面楚歌で、一人だけ娘の東京行きを反対する頑固おやじの立ち位置となってしまい、ついには俺の心が折れてしまった。


 でも、やっぱり、家族である穂乃花が家に居なくて寂しい……。


「そこはゴメンって。でも、私に敵意剥き出しだった穂乃花が、討つべき相手である私に頭を下げてお願いしてきたんだから、よっぽどの覚悟なんだなって分かったからさ。母親として反対できなかったんだよね」


「穂乃花は、将棋の事になると火の玉みたいに激しいからな……。あ! そういえば、俺は羽瀬先生の所に弟子入りしたことも、まだ正式には許してないんだからな! あの時も、俺の事は除け者にしやがって!」


「はいはい、ごめんごめん。じゃあ、今日は私が慰めてあげるね」


「……近いぞ桃花。そんなひっつくな」


 リビングの床に胡坐をかいて座っている俺の背中に、桃花がゆっくりと腕を首元に絡ませて、身体を寄せてくる。


「いいじゃない。弟子の歩美も独り立ちして、穂乃花も東京。次女の雫も、今は東京で映画撮影だし、家には2人きりなんだし」


 そうなんだよな。

 次女の雫は、どうやら役者としての才能があったらしい。


今や大女優で桃花の親友の上弦美兎ちゃんがその才能を見出して、子役として大ブレイクしている。

 デビュー当初から芸名を使い、飛龍桃花八冠の娘という七光りを一切使わずにである。


 習い事気分で子役デビューさせたが、まさかこんな事になるとは……。


「はぁ……、それならいっそ俺たちも東京に引っ越すか」

「運営してる保育園はどうするの?」


「うぐ……」


 そうなのだ。


 今の俺は、棋士と保育園の園長先生の二束のわらじを履いている。


 棋士のスケジュール上、都合が合わなかった時のために人員を手厚くしたり、保育士先生への教育への投資は惜しんでいないが、それでもまだ他の人に運営を託すには早い。


 東京と名古屋の二拠点生活は、どう考えても無理がある。


「でも、私たちは幸せじゃない。穂乃花には羽瀬先生一家が、雫には美兎ちゃんがそれぞれついてくれている。娘たちを安心して任せられる信頼できる人たちが居て感謝だね」


「それは、まぁそうだな」


 俺だって、娘たちの成長のためには親元を離れている今がベストな選択だという事は、頭では解ってるんだ。


 だけど……。



「そんなに寂しいなら~、もう一人頑張ろっか誠君」


「ぶっ! と、桃花!?」


 いつの間にか、足まで絡ませてきている桃花が耳元で囁く。


「私は欲しいな……赤ちゃん。ね、また新婚の時みたいに2人きりになれたんだし」

「そ、それは……」


「最近は育休産休をとる女性棋士も増えたしね」

「いや、桃花……。お前は、まだ相変わらず複数タイトルを持ってるんだし」


「別に一度手放して、翌期にタイトルを取り戻せばいいだけだから。雫の育休の時と一緒だよ」


 未だ衰えぬ桃花の棋力があれは、本当にそれが可能だからな。


「いや、でも……」


「でも、頭ごなしに直ぐに赤ちゃんを作ること否定しないんだ。ってことは、誠君も欲しいんだね赤ちゃん」


「桃花、俺は……」


 ズバリと心の内を言い当てられて、俺は言い淀む。




「おいで、仲良ししよ」






「し・しょ・う♪」






 普段は禁じ、久しく呼ばれていない呼称を聞いた瞬間に、理性のヒモが切れる音がした。


 そこから俺は桃花……いや、弟子の頬に手を伸ばして……。




(ガチャッ!)



「ただいま、お父さんお母さん!」


「わわわ!? 雫!?」

「お、おお!? おお、おかえり雫」


 突如開いたリビングの扉の音を覚知し、俺と桃花は跳ね飛ぶように離れる。


「もう。何度も玄関の呼び鈴鳴らしても出ないんだから。勝手に上がらせてもらったわよ」


「あ、み、美兎ちゃん。ありがとう。今日が帰りだったんだね。わざわざ雫を送り届けてくれてありがとう……。あれ、今日って帰ってくる日だったっけ?」


 あせあせと、髪の乱れを直しながら、桃花が家にスーツケースの大荷物をリビングに運びこんできた美兎ちゃんに訊ねる。


「撮影が思ったより巻けて半日短縮になったから急遽帰ることにしたの。って……何かあった?」



「「い、いや、別に~」」


 いぶかしげな顔をする美兎ちゃんに、俺と桃花は全力で誤魔化す。


 が……。


「美兎師匠。お母さんの頬が赤くなっています。私の急な帰宅に驚いただけで、こうなることは考えにくいです。ん? よく見るとお父さんも」


 雫ぅぅぅぅうううう!


 役者として美兎ちゃんに鍛えられた人間観察の癖が、なんでこんな状況で炸裂してんだぁぁぁあああ!


 そんな、子供の純粋な探求心でキラキラした目で俺たちを見ないでくれぇ!


「さ……さぁ、なんででしょうね? 私にも、さっぱり分からないわ雫」


 絶対に全てを察したであろう美兎ちゃんが、弟子の雫から顔を背ける。


「ちょっと美兎ちゃん! 雫の師匠なんだから、こういう時のフォローもしっかりしてよ!」


「知らないわよ! なんで私が弟子の両親のイチャイチャをフォローしなきゃいけないのよ!」


 親友同士の2人がケンカしているのをどう止めたもんかとオロオロしていると。


「ねぇねぇお父さん」


 見ると、雫が俺の隣で服の裾をクイクイッと引っ張ている。

 これは、コショコショ話がある時の合図だ。


 内緒話を聞くために屈んだ俺の耳元で、雫はこっそりと言った。



「私、お姉ちゃんになるなら、弟がいいです」



「……え? あ、はい……」


 俺が呆けた答えを返すと、雫は満足そうにニンマリした後に、桃花と美兎ちゃんをなだめに向かった。



 雫は最初から全て気づいていたのだ。


 気付いていた上で、何も知らない子供のふりをして、美兎師匠までをもからかって……。


 なんて演技力……雫、恐ろしい子!



 この洞察力の高さと度胸を見るに、実は雫は女優としてだけでなく、棋士になっても大成するだろうな……。


と、俺は小学生の娘に色々とバレてしまっている事を、今目の前で騒いでいる妻の桃花にどう伝えたもんかという難題を前に、現実逃避するのであった。


本作、『私が名人になったら結婚しよ?師匠』が、D&C media×Studio Moon6 WEB小説大賞の奨励賞を受賞いたしました。


将棋ラブコメという自分の趣味丸出しで書いた作品が、初めてのコンテストでの入賞を勝ち獲ってくれて、とても嬉しいです。


これからも、鋭意頑張って参りますので、よろしくお願いいたします。


ヤッター----!!

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― 新着の感想 ―
おめでとうございました! さすがに母の血を引いて、皆早熟ですねえ。6年後には花嫁の父ですかあw 男の子なら、家に残ってくれるかなあ。 しかし、羽生さんとか、時代の流れは加速していますねえ。
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