上皇陛下を筑紫にお迎えする
九州の兵を大海人皇子の名のもとに糾合することを成功した俺。
しかし各所から集まってきた兵たちは古人大兄皇子の漢っぷりに心酔するものが続出した。
腕に覚えのある将が古人大兄皇子に組手を申し込むと、皇子は笑ってそれを受けた。
「太宰烈脚斬陣!」
…どっかで見たような技だが、古人大兄皇子は
「目が見えぬので武器を手に持って戦うと取り落した時に不覚を取る。」
という理由で足技を極めていたのだ。その素晴らしい戦いっぷりと柔和な人格に人外魔境とも称された筑紫や薩摩の兵どもは
「そこに痺れる憧れる!」
とぞっこんになってしまったのである。大海人皇子もその生まれと人脈により九州の諸氏には忠誠を誓われており、ここに遠征軍は一丸の精兵となったのであった。
というわけで九州の武士どもは両皇子に心酔しており…俺の扱いは
「あ、太閤殿下、いたんですか。」
と非常に軽いものとなった。
「…いいことあるよ、きっと。」
とその存在感のなさは大海人皇子に肩を叩かれ慰められたほどである。
こうして天皇・上皇両陛下を迎える下地を作った俺だった。
次に俺は宝女王上皇陛下を迎える準備をはじめた。
史実では朝倉宮を建築し、そこにお迎えしたのだが(やったのは当然史実ではとっく死んでいる俺じゃなくて中大兄皇子)船旅の疲れなどで宝女王は体調を崩してしまい、ほど亡くなくなってしまったのである。
御年67歳だから当時を考えると短命とは言えないが、俺にとっては大切な人、むざむざ死なせるわけには行かないのだ。
そこで史実では朝倉社の木を使って『呪われた』だの『鬼火が出た』だの言われた朝倉宮は用いず後に中国や朝鮮からの使節を迎えた鴻臚館の地に華美ではないものの住みやすさを重視して平安時代の寝殿造風の邸宅を建設させた。この時代だとちょっと後の持統天皇の時代に筑紫館として建設されているが先取りで良いのだ。
ここを選んだのは先取りついでにすぐ近くの福崎の丘にその後有名な城が建てられたからであり…それこそが黒田如水・長政親子の福岡城なわけである。
優美な別荘風建築を狙った鴻臚館(改称めんどいので最初からこの名前に)の背後に本物ほどではないが福岡城を建設。ここ江戸時代もすぐ天守取り壊しちゃったから二層櫓並べればそれなりに見えるから良いぜ。当然象徴の潮見櫓は建てた。
ついでに元寇を防ぐために作られた石塁も最初から建設、史実だと白村江の戦いで負けたから築かれた大野城も福岡共々原始的な範疇だが石垣も用いて建設。飛鳥の畝傍山城を上回る石塁の上に多聞櫓が接続する超重厚な城になってしまった。筑前の大野城なのに越前の『天空の城』大野城みたいになってしまった。
福岡城建てたのでいらなさそうだけど水城も簡単に土塁と堀と馬防柵、逆茂木など使って建設…これはどっちかというと塹壕陣地にした。使えるかわからないけど。
と筑紫の大工事(渡来人総動員)に地元の方々が目を丸くし、『狂心の渠=わけのわからない大規模土木工事、ここに極まる』と噂された。
(ついでに懐かしの大坂城跡地も後世の石山本願寺ぐらいには堀を掘ったりした。)
それと並行して俺は宝女王の為の御座船を建造した。お身体を守るためには揺れるのはいかんのだ。播磨王(有馬皇子)が以前使った孝徳丸はなにせ参考にしたのがカティーサークゆえ素晴らしく速いのだが細い船はすごく揺れるのだ。
というわけで今度はノアの箱舟を参考に「長:幅:高=30:5:3」の比率の方舟を造った。
名付けて斉明丸。座礁しては困るから竜骨式じゃなくて平底式だが。この比率は安定性抜群で耐候性も高いのである。ノリとしては3本マストの英国あたりの『王室用ヨット』という感じだ。
かなり大きくなってしまったので港に入るときはだいたいカッターをおろして乗り降りするようになってしまったのが玉に瑕だが、難波、福原、備、筑紫の港には入港できるようにした。
乗り心地がだいぶマシな船を作りつつ、俺は宝女王が中途で疲れを取れるように播磨の有馬温泉、備(後の広島・岡山)の大崎上島の甲温泉、長門の王司温泉、九州に上陸してからは脇田温泉、そして筑紫の本営にほど近い二日市温泉の各所を整備・宿泊所を造営して宝女王がそれぞれ疲れを癒やしてからゆるゆると出向けるように整えた。
上皇(宝女王)陛下は各所で数日から数週間を過ごし、体調を整えてから次の地へ向かったため飛鳥を出て筑紫に到着するまで半年ほどかかり、鴻臚館に着いた頃には湯治と俺が前もって指示していた山海の珍味で体調はむしろ整って艶々であった。まぁ今上帝としての責任がないこともストレス軽減になったのかもしれないけれど。
その今上帝(中大兄皇子=天智天皇)の方は難波で超高速艦孝徳丸に放り込まれ、
「玄界灘の〜荒波」
等と歌う船頭に
「ねぇ、勅命だからもうちょっとおとなしく航海しない?」
等と頼むも却下されつつ猛スピードで鴻臚館にほど近い博多港に到着した。
陛下は3日ほどは
「陸についてもゆれている…」
と船酔いに寝込んでいたが、体調が回復した後は(まだ仮普請状態だが)大本営たる福岡城に入城したのであった。
先に書いたように上皇陛下が到着したのはそれよりもだいぶ時間が経ってからだった。鴻臚館に入られた宝女王は
「おや、鞍作はいないのか?しばらく離れていたから久しぶりに夜伽を命じようと思っていたのだが。」
と舎人に聞いた。歳を召されて回数こそだいぶ減っていたが女王まだそっちは現役だったのだ。
「太閤殿下なら今は海北に行っていてご不在です。…書き置きによればそろそろお戻りになられる頃合いだと思いますが。」
そう。俺、蘇我鞍作は国内の様々な作事が進んでいる間に海を越えていたのであった。




