白村江の戦い前夜
さて播磨王こと有間皇子がはるかな南に旅立った頃、海北の情勢は急を迎えていた。
新羅王に戴冠した来日したこともある俺のマブダチ(と思いたい)金春秋(武烈王)が唐と同盟し、唐軍13万の援軍を得て百済の都泗沘城を落としたのだ。義慈王は捕虜として妻子とともに長安に送られた。
しかし元々の唐の目標は隋の時代からの仇敵である高句麗征伐であった。
当時朝鮮半島は三韓、すなわち3つの国家に分かれていたが、半島北部の高句麗は中華国家に対する独立心が強く対抗していた。唐の先代に当たる隋が滅亡したのも煬帝が度々高句麗征伐に失敗して威信を失ったことが大きな原因である。
半島東岸を締めているのは新羅であるが、高句麗は使者としてきた(偵察とも言う)金春秋(本人)を捕らえて幽閉するなど敵対的であった。高句麗とまともに関係を結べないことを見て取った金春秋はその優れた外交感覚から唐と同盟した。
百済はしばらく前に継体天皇(と当時政権をになっていた大伴金村)から日本府(伽耶もしくは任那諸国)の所領を結託して割譲させて消滅させるなど新羅と関係を結んでいた。
継体天皇は武烈天皇の直系の血筋が断絶した後、遠方(越前)から迎えられた遠縁の皇族だったため(三国志の劉備よりは正統性ちゃんとある。)朝鮮半島にも覇を唱えた雄略天皇(倭王武)の打ち立てた天皇(当時は大王)独裁に近い絶対的権力(というか雄略天皇は敵対者を次々に滅ぼした。)から継体天皇を支持した諸豪族による合議に近い形となり、外征するまでの力を失っていたのが大きい。
それはさておき伽耶諸国を分割・併合した後は百済は日本(当時は倭(わ、もしくはやまと)だが)と親密な態度を続け、仏教や文字の伝来など我が国の文化に多大なる貢献をしてきた。その百済は国境を直接接しているせいで度々新羅と交戦状態に陥り、『敵の敵は味方』というわけで高句麗とも結んでいたのだ。
唐から高句麗を攻める際、単純には中国大陸からそのまま東に侵攻するのがわかりやすいルートなのだが、この経路は度々高句麗に防がれていた。かと言って更に北に大回りするのは突厥、契丹などの諸族を完全に服従させていない上に寒さが厳しくてキツイ。
それ故唐は高句麗の南方の新羅と結び、高句麗をはさみうちにしようとした。そうなると新羅の更に南に位置する高句麗の同盟国、百済を放置すると新羅方面からの軍は挟み撃ちにされてしまう。そのため(それと半島統一に密かに燃える金春秋の唆しもあって)唐は高句麗を討つ前に百済を攻撃したのであった。百済王扶余義慈は以前新羅に対して盛んに攻撃を仕掛けたが、城を落とした際に金春秋の娘を処刑して金春秋は復讐の機会を伺っていた。当初百済は盛んに新羅の城を落としたが、金春秋と新羅の名将、金庾信の前に次々と破れ、義慈王は酒色に溺れるようになっていた。
そして唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ新羅郡5万と共同して首都泗沘を落としたのである。唐は戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘」を建てた。そこで戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫ったのであった。
泗沘城を落とした唐はそこに熊津都督を置いた。それから唐は本来の名目である高句麗征伐に兵をむけたのであった。唐の主力が北上し手薄になると百済の遺民鬼室福信・黒歯常之、僧道琛らによる百済復興運動が起きた。唐の軍勢は百済を攻略すると軍記が乱れ、住民を殺戮し、婦女子を強姦する有様だったのである。
黒歯常之は、旧来指揮していた部隊を糾合して、任存山城において唐に叛旗を翻した。それをみて百済の旧軍兵士が参集し、その数は瞬く間に3万を数えるまでになった。
それに対して唐の将軍蘇定方は自ら兵を率いて反撃し、敗北した百済復興軍は余自信の居城周留城に立てこもった。その後も度々出撃しては諸城を攻略し、唐がまた取り返す事を繰り返して膠着状態に陥ったのであた。
周留城は天険の要塞であり、唐は攻めあぐね、鬼室福信らによる抵抗は続いた。そして鬼室福信は日本に対して援軍と、復興の旗頭として王子扶余豊璋を帰還させるように求めてきたのである。
現在の天皇、すなわち中大兄皇子であり、この話の今までの呼び方だと葛城天皇と呼ぶべきであろうが、話がこんがらがるのでこの後は後の淡海三船が付けた諡号の『天智天皇』でお呼びすることにする。天皇になる前の大王達をどう呼ぶかは後の歴史に任せる。(軽皇子のところがややこしくなりそうなので)
さて天智天皇陛下は飛鳥浄御原宮に諸臣を集めて朝議を開いた。
「…このように鬼室福信は援軍と扶余豊璋王子の帰還を望んでおられるが、諸君はどう思うか?」
と会議の進行役を務める藤原鎌足が説明した。
「太閤殿下、なにか言いたいことがあるようですが。」
「内府殿、それは悪しゅうござる。」
と俺は疋田文五郎を気取って言った。疋田文五郎は伝説の剣聖上泉信綱の高弟である。
剣の指導をする際に相手に対して
「それは悪しゅうござる。」
と言い放って打ちのめすのが癖だったのだ。詳しくは不朽の名作漫画『剣の舞』を読まれよ。閑話休題。
「太閤殿下…ええいまどろっこしい鞍作殿、それはいかに?」
「我が国におられる扶余豊璋様は確かに紛うことなき百済の王子。しかし六男であります。まだ八男ならチートに目覚めてハーレムでも作りそうですが…ゲフンゲフン、それはさておき。」
『チート』『ハーレム』などと言われて目を回している群臣を放置して俺はすすめる。
「豊璋様は平和な我が国で文官と交流され、その優しいお人柄と知性はたしかに良い王となりましょう…しかし今は戦乱の時です。あの新羅王金春秋や金庾信、そして唐軍と渡り合うには武威が足りない…まだ芯がしっかりしている弟の善光様のほうが。(実際頭もだいぶ善光のほうがいいしなぁ。)」
「鞍作殿は私を愚弄するか!兄より優れた弟など存在しない!」
と柔和な感じの扶余豊璋王子が叫ぶ。いたんかい。しかし見た目は『肖像画の小早川秀秋』といえばわかってもらえるだろうか。今は怒っていて目は怖いけど。このすぐキレて相手を処したくなる性格もまずいんだよなぁ。実際史実で百済に帰還したら復興運動の中心で黒歯常之と並ぶ軍の中核である鬼室福信殺しちゃうし。
「それに加えて百済は仏教とともに儒学の影響が強いお国柄と聴きます。」
「それがどうした。」
「そこで問題になるのが豊璋様が第6王子なことですよ。私が調べた範囲では兄の王太子扶余隆様は捕らえられて唐にいると。」
うん。密かにやり取りしている金春秋に聞いた。
「唐が王太子を百済に送って統治したらどちらのほうが大義名分が立ちますかな?『兄より優れた弟などいない。』のでしょう?」
「囚われの傀儡などと私は違う!」
おいおい。話ずらすなよ。
「ともあれ、扶余隆様が健在である以上、唐や新羅に利用される可能性は考えませんと。ここは新羅と交渉して蜂起した百済遺臣に対して寛大な対応をお願いしてこちらに一旦亡命してもらい、力を蓄えるのはどうでしょう。」
正直兵は送りたくないでござる。復興運動の将軍で黒歯さんは特に名将だけど新羅も唐も手強いのでござる。唐の将軍劉仁軌とか一兵卒に落とされても這い上がって城を落とすすごい男なので。
「…太閤殿下、我が国の百済との長い関係を考えるとそれは無理がありますまいか…」
と藤原鎌足さん。うん。ちょっと無理があるとは思った。国の流れ的に百済を見捨てるのは難しい。
「大体太閤は新羅王と親しいではないか!これを幸いと新羅に利する気であろう!」
と扶余豊璋。
「…黙れ。」
と御簾の中から声が聞こえた。陛下だ。
「太閤は私利私欲のために国の行く末を誤るような男ではない。」
と天智天皇陛下。ありがたきお言葉。パンダは私利私欲で入手しちゃうけど。
「はっ。失礼しました。」
と頭を下げる扶余豊璋。
「しかし太閤よ、そうは言っても皆が言う通りここは我が国としては百済に味方をせねばならん。勝つ策はないか。」
俺はしばし思案をして口を開いた。
「ならば20万乃至30万ほどの軍勢があれば万全ですな。せめて10万。」
「そんな!」
「無理を言うな!」
と口々に群臣から声が上がる。
「唐の軍勢は増強されており、高句麗から戻れば15万ほどと見込まれます。それに新羅直卒の5万。合わせて20万を超える大軍です。百済解放軍は…まぁ日和見している勢力が戻ってきても4−6万というところ。唐は太宗以来の戦上手となれば同等以上の兵を用意しないと。ここは九州の兵全軍を挙げて畿内の兵と合わせて送れば。艦隊はだいぶ揃ってきておりますし。」
と俺はふふん、と言う表情で説明した。小勢で勝てるなど思うほうが行けないのだよ。こんな事もあろうかと宝丸を拡大した超大型ジャンク型艦『神武』『崇神』『仁徳』など大型艦八隻含め艦隊は整備してきたのだ。
「…太閤殿下、九州の兵をすべて、といいますと?」
とぽかんとした表情で藤原鎌足が聞いてくる。
「そりゃ筑紫、豊、肥、薩摩などの総力を上げてですよ!特に薩摩隼人は中華に効く。」
「…とおっしゃいますが、たしかに隼人は最近従順で大海人皇子様のところに人をよこしていますが…筑紫国造(=筑紫の長)は面従腹背で兵など形しか出しませんよ。我らが敗れれば牙さえ剥いてくるかも。」
「え?物部麁鹿火が破ったはずでは?」
「そうは言いましても。未だに大和向け以外に唐などには勝手に王を名乗ってますし。」
…キレたぜ。本当にキレた。
「ならば海北に兵を送る前に九州征伐じゃ!国内きっちり平らげてから出陣しちゃる!」
「おお!」
と俺は思わず叫び、群臣はそれに答えて歓喜の声を上げた。…考えるとこれはすなわち半島出兵に同意してしまったことになってしまったのだ。あらあら。それはともかくまず九州を真に平定しないと。




