閑話 播磨王の伝説
ジャイアントパンダとレッサーパンダを無事に連れ帰った有間皇子は大坂の陣の責任を許された。しかし『皇子』を名乗り、皇位継承を主張するのは流石に烏滸がましいということで新たに播磨王の名前を与えられ、好きな有馬温泉の管理を任されて温泉街の発展に尽くした。
その後播磨王は有馬温泉の隆盛を見届けると『退屈した』と俺に船を強請った。流石にその時点でも新技術の鎌足じゃなくて塊だった孝徳丸を渡すわけには行かなかったので当時量産していたジャンク船構造の新艦の内、3本マストの高速船を標準仕様の竹製の帆ではなく布製の速度が出る帆にした『高岳丸』を建造して渡したのだった。流石に大砲は乗せていない。
ちなみに『高岳丸』の名前は今よりずっと後、皇太子を廃された後、出家して東南アジア方面へ旅立った高岳親王から取った。平城天皇の皇太子だったが平城天皇が藤原薬子に騙されて叛乱を試みた際に廃されたのだ。親王はマレーかインドのあたりで伝説では虎に喰われて死んでしまったとされている。まだあと150年ぐらい生まれないけど。
播磨王は高岳丸を駆り、一路東南アジアを目指した。
なんでもパンダを捜索するために迷ってチベット高原まで登る羽目になったり(そこで達磨大師とであった。)暑いところが苦手なパンダの世話のために大量の氷を用意したりすることになるなど寒さに震える事が多く、俺が
「いっその事今度は蝦夷の奥に大きな島(当時の蝦夷は東北以北。すなわちこれは北海道のこと)があるからそこを征服しては?」
と言ったのに対して
「もう寒いのは嫌じゃ。むしろ熱いのは耐えられる。鞍作が教えた『さうな』、という蒸し風呂に入り続けて耐えるのも俺が一番なのだ。」
と反発…したわけではないのだろうけど、真逆の南を目指したのだ。
播磨王はそのまま蘇門答剌に上陸した。どうやら俺が
「北に行くなら羆を、南に行くなら虎を捕らえてはいかがでしょう。トラだけにとらえる…ぐふふ。」
と言ったのを覚めた目で聞き流しながらも覚えていたようで(北にもシベリアトラいるけどね。)スマトラを拠点に暴れまわった。
「寒いのは嫌いだが暑いのもうざい。」
と言い出した播磨王はスマトラで知り合ったアラビア商人を真似して頭にターバンを巻き、同じく
「まぶしい。」
と言ってアラビア商人から譲ってもらった黒ガラスを加工してサングラスを作ってかけるようになった。どうやらパンダの顔から思いついたらしい。
その出で立ちで播磨王は
「虎じゃ!虎は何処じゃ!」
と暴れまわって諸族を従え、じきに虎を見つけて狩るうちに…見つけた子虎を育てて従えるようになってしまった。懐には俺がプレゼントした火打ち石式の単発拳銃を差し、ピンチのときには拳銃を抜いて悪を撃ったという。単発だとヤバそうなのだが、そもそも拳銃自体がないこの時代(当たり前だ)では拳銃の音、煙、轟音、威力から『神の雷』と呼ばれるようになった。そして神の雷を操る播磨王はヒンドゥーの神々を崇める現地の住民には『インドラ(雷神)の御使い』と呼ばれて崇められるようになった。
父の教条主義的な統治が上手く行かなかったことを見ていたせいか、元有間皇子の播磨王は現地の人間を大切にしたのもますます人望を集めるようになった。
この地には仏教徒も多くいたが、それらの人々には元々習得していた仏教の知識に加え(父の孝徳天皇ともども仏教への帰依は深かった。…この辺上座部仏教で日本のは大乗仏教だけどね。)法皇(山背法皇のことだけどね。)と親しいとか達磨大師から教えてもらったことなどを語るうちに仏教徒にも尊敬されるようになった。
さらに俺と酒を飲んだときに
「うーん。酒が上手い。イスラム教徒だと酒飲めないけどな!」
と言ったのに対してイスラムとは?と尋ねてきた時に
「数十年前にメッカにモハメットという偉大なる神の使いが現れ、偉大なるアラーの神の教えを説いたのよ。その教えでは酒を飲むのと豚を食べるのが禁じられてるの。」
などと教えていたのをしっかり覚えていて、アラビアやペルシアの商人をもてなす時に相手がイスラム教徒だと決して酒も豚も出さず、また本人も仏教の戒律的に、と豚を食べなかった。また先のパンダの件で達磨大師と知り合ったが、達磨大師はササン朝ペルシアの出身であり、その経験からペルシアやアラビアの商人とも親しくなったのだった。
…この記憶力と実行力、ぜひ日本にいる間に実践してもらっていたら偉大な天皇になったかもしれない…。
そうして虎を従えた播磨王はついにはマレー半島にも覇を唱えて『マレーの虎』と呼ばれるようになったということだ。播磨王だけに。ここまで見てきたようだが一応遣唐使が聞いた話を俺が聞いた、ということにしておいてくれ。
ちなみにモデルとなった本物のハリマオ谷さんはマラリアで亡くなってしまったが、播磨王は俺が『蚊や寄生虫にはとにかく気をつけてくだされ』との忠告を真摯に聞き、キニーネ…は流石に南米と交易なくキナの木が手に入らなかったので無理だったが、これまたペルシア商人から地中海の除虫菊を手に入れて大量に栽培し、蚊取り線香を作るという偉業を成し遂げてマラリアから身を守ったという。
そのため播磨王は地元の者に『蚊取り線香の匂いと虎の遠吠えが聞こえるとハリマオが現れる。』と語られるようになった。
こうして播磨王は遂に今のマレーからインドネシアの一帯に王国を打ち立てて推戴された。その王国は播磨王の死後息子たちを擁立する貴族たちの内乱により、幻の王国として歴史の影に消えていったがマレーの交易の特産品として蚊取り線香はその後も主力となった。
また今でもマレーの密林には奈良の大仏よりも巨大な達磨の石像が何処かに隠れているという…。




