パンダとダルマ
飛鳥浄御原宮を中心とした飛鳥京の建設もだいぶ目処が立ってきた頃、難波の港に一隻の船が帰ってきた。
有間皇子が乗った唐から帰ってきた船である。その積み荷には…パンダの番を積んだ大きな檻があった。
「有馬皇子!唐から泳いで…は参らずすみましたが今戻りましたぁ!」
「おお、皇子、よくぞお戻りで。」
「関白殿下…いや先程聞いた話だと太閤殿下ですか。ご用命の通りあのパンダをお連れしました。このまま船を回して南紀白浜に向かえばよろしいので。」
「お願いする。南紀白浜はパンダのためには極めて優れた土地柄ゆえ。」
そこに飛鳥京から来た宝上皇陛下が顔を出した。
「おお、これが鞍作がかねがね話していたパンダという動物か…実にかわいいのう。」
「陛下!遠出をしてはお体に障ります!白浜で落ち着いてから療養を兼ねてご覧に入れようと思っていたものを。」
俺はよろめきそうな彼女の体を支えて言った。
「良いのだ。あの鞍作がコレほどまでにこだわる動物というのがどういったものかどうしても早く見たくてな。」
「そういえば殿下、もし可能なら、と言われた方のパンダも連れてきましたよ。」
と小さい方の檻を有馬皇子が指差す。中には…レッサーパンダがいた。可愛い。
「有馬皇子!でかした!これぞレッサーパンダ!ジャイアントパンダだけでもその功績ははかりないと思われるのにレッサーパンダまで手に入れるとは。」
「おお、実にかわいいのう。こちらの『レッサー』とやらは飛鳥に置いてもよかろう?鞍作。」
と上皇様。
「え、ええ。双方とも暑すぎてはいけませんので山荘に飼育場を設けましょう。」
「ところでお二方。」
と有間皇子。
「これらの動物を手に入れるのに私と船の者共は尋常ならざる苦労をしたわけですが…」
と話し始めた。何分今回の渡航は唐の政府には秘密だったゆえ、新造快速線孝徳丸(と勝手に名付けた。)をおそらく東洋世界初の竜骨構造で造ったのだ。俺の脳内イメージとしてはイギリスの茶輸送船カティーサーク。流石に竹の帆では無理があるので帆は麻と絹という超豪華仕様である。そのこの時代としては暴力的な速力を利して台湾海峡を突破して現代の香港付近に到着、そこから昆明を抜けて蜀に入るというそれだけでも大冒険。
蜀の山中で無事に大小パンダを捕獲した一行は俺の『漢人にパンダをこの時点で知られると乱獲されて絶滅の恐れがあるから絶対に政府に走られないように密かに移動せよ。』という無茶ブリに応えてパンダの存在を隠匿しながら世話をし…『病の貴人を海南島で静養させる』と言い逃れ…どうにか香港に戻って日本に舞い戻ってきた、というわけだ。
「しかしこの船は凄まじい速さですなぁ」
と隣で聞いていた船長さんが感心して言った。
「それに太閤殿下が積み込ませた柑橘類、生に乾燥させたものに干し飯、肉や魚の干物などのおかげでまぁ今までにない快適な旅でしたわ。」
快適だった、という割に帰りは結構ギリギリだったらしい。なにせ当時代で見たこともない巨船が居座っている、という報が香港から長安に飛んだのだ。
あまりの大きさに『そんな船がそんなところにいるはずがない。』と報告が数度に渡り握りつぶされた(と後で正規の遣唐使のメンバーからそういう話があったと聞いた)のが幸いだった。
流石に何度も報告され、揚州に出入りしていたアラビヤ商人もその様な船を見かけた、と証言したので唐も重い腰を挙げて揚州から艦隊を組んで乗り出してきたのだ。
揚州からの艦隊が迫るのと有間皇子が戻ってきて大小パンダを積み込んだのは僅差であった。孝徳丸は大急ぎで香港から出港し、それに迫る唐の艦隊という様相になった。
その際、俺が前もって指示を与えておいたとおり孝徳丸は背後の唐の艦隊に向かって空砲を発射し(大砲を非常用に4門搭載していた。)火薬を種火に煙幕を盛大に炊いてもうもうとした煙の中を逃げ切ったのであった。
ちなみに大砲を搭載していても実弾を撃たなかったのは艦隊相手に壊滅させられるほどの武装ではないので、向こうから見ると『突然爆発して煙を吹き上げながら消えた』と思わせるためである。この作戦はうまくいき、件の遣唐使から聞いた話だと『南方に現れた謎の巨船は突然爆発して消え去った。』と報告されたという。
しかし万が一孝徳丸が拿捕されたらデカイわ造りが違うわ大砲は積んでいるわと後の歴史がわやになったかもしれなかったから実に綱渡りな航海であった。
と報告を聞いて
「とにかく無事に帰ってくれてよかった…ところでそこのただならぬ気配のご老人は?」
と俺は船の片隅にいるただならぬ異形の老人について尋ねた。ギョロリとした目、赤い法衣をまとって弾のように丸くなっている。
「ああ、あの方ですね。パンダを求めて吐蕃に近い高山をさまよっておりましたところ、あの方が洞窟に座って修業なさっていたのです。その佇まいから余程の高僧かと思いおたづねしましたところ、周という国から故郷の波斯国に帰ったが、騒がしいのが気に入らずここにいた、とおっしゃいまして。口数が少ない方なのですが、我らの姿を見て一緒に来る、と。」
「お名前は?」
「達磨。」
と突然老人は答えてそのまま黙った。
…達磨って達磨大師?えーと。うろ覚えだけど唐の時代じゃなくてずっと前の北周の時代の人だよね。…現時点だと100何十年か前に150歳で身罷っていたはずだけど…生きてるの?大体270歳ぐらい?
俺は平伏して達磨大師を迎え、身の回りの世話を最上に丁重にするように申し付けて旅の疲れをねぎらった。達磨大師はその後そのまま日本にいついた。仏教界の頂点を勤めていた山背法皇が帰依して積極的に皆に禅を学ばせたのをはじめ、まだ年若い修験道の開祖、役小角も達磨大師のところに学びに来てその教えを吸収し、自らの修験道にも禅宗の影響がより濃いものとなった。例えば山岳修行をするのは本来の修験道同様だが…山深いところにたどり着いたら座禅をして世界と一体になる事を感じよ、と言ったように取り入れられてしまったのだ。
おかげで日本の仏教は…500−600年ぐらい早く禅宗の流れが濃厚な様相となってしまったのである。どうなる将来の大仏建立。まあ達磨大師が生きていて日本に来るぐらいだから、この世界やっぱりVRゲームだよね、と俺は思った。




