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譲位と狂心(たぶれごころ)のみぞ

みなさま本当にありがとうございます!

有間皇子の決起を大坂城を落として阻止した俺達は一旦大坂城を埋めた。文字通り埋めたのだ。埋めた上には石を積んで丘を作り、寺院を建てた。


 当然名前は『石山本願寺』である。大坂城から先祖返りしてしまったが(汗)


 本願寺の座主には山背法皇が就いた。…というか皇族で高位の僧、というのが今のところこの方しかいないのでやたらに兼任しているのだ。本人は


「また新しい寺だ!」


 と大喜びで建設の間司令室代わりにしている四天王寺で飛び回っていた。後の話だが唐の使者が来て飛鳥京に案内した際、石山本願寺から四天王寺、大和川を登って斑鳩寺(法隆寺)に至る大伽藍の連続に日本はここまで進歩しているのか!と目を剥いたそうだ。


 難波宮(大坂城)跡地には当然石山本願寺の他に瀬戸内を上がってくる船のための港などの交易施設や、外構の使者を迎える施設なども建設された。各町は掘られた水路で結ばれ、後に『水の都なにわ』と呼ばれることになる。


 難波宮の後片付けを終えると同時に宝天皇たからのすめらみこと大王おおきみの位の廃止を宣言した。


 大王を廃して王の王たる天皇に統一すると宣言したのである。そして宝天皇は位を中大兄皇子に譲り、上皇となったのであった。


 史実でも譲位をした最初の天皇は宝女王(皇極天皇)であった。相手は軽皇子…孝徳天皇だったのだけど。皇極天皇、と言った名前は後に淡海三船が付けた名前なので、この時代の人々は名乗っていない。(そもそも自分で諡号を名乗っていたのは後醍醐天皇ぐらいだ)


 ここで皇極天皇が譲位をしないと日本の皇室に譲位の決まりが生まれなくなる可能性があり…そうなると上皇とか法皇とかそういう我が国の美しい習わしが失われてしまうのだ。


 そこで俺、蘇我鞍作は宝天皇を説得し、中大兄皇子に生前譲位を行ってもらったのである。


 そもそも宝天皇、有間皇子の乱を収めた時点で御年62歳となっており、まだまだ元気ではあるもののちょっと公務がキツくなりつつあった。その割には未だに俺を夜呼びつけてくるのはすごい生命力だが。

 それもあって中大兄皇子への譲位はスムースに終わった。譲位の儀は主に俺のうろ覚えの平成から令和の際の儀式を取り入れ、大嘗会宮の建設や儀式などがつつがなく行われたのであった。


 こうして中大兄皇子が後にいう天智天皇に即位した。史実だと皇極(斉明)天皇が亡くなった後に即位しているから母が生きている間に即位、というのもまた歴史が変わっているところなのだ。


 上皇となった宝女王は飛鳥、すなわち奈良盆地に大規模な用水路網の建設を始めた。これは数万人を動員して多大な負担がかかったので、史実でも『狂心ノたぶれごころのみぞ』と呼ばれた大規模な事業であった。


 ここで俺はチート住人らしい提案を行った。


 上皇の水道計画は非の打ち所がない(大規模な石組溝を基幹水路として、その水を木樋暗渠によって周囲に送る)ものであったが、奈良時代から平安時代にかけては大きな問題があった。


 …それは俺が俺がこの世界に潜り込んでまず直面した問題、すなわちトイレなどの下水の問題だ。


 史実でも後に建設された藤原京や平城京などの都にも多くは道路の側溝という形をとって水路が張り巡らされていた。藤原京では水量が足りずすぐに問題が表面化したのだが、この時代、水は上水と下水が分けられていなかった。よって糞便や汚物はそのまま飲料などにも使う用水に投棄され、結果として溜まった汚物で水道は汚染され、悪臭が漂い、疫病がしょっちゅう流行る始末だったのである。これホント。


 そこで俺は上皇陛下などと建設した用水を上水にのみ用いることを厳命した。大きな川にほど近いところなどで川を利用した水洗式トイレを作ることは認めたが、これは条件上上級の豪族(貴族)の屋敷に限られることになった。


 では一般の人はどうさせたのか、であるが、便所の下に便槽を設けさせ、それを定期的に汲み取らせて農村に運ばせる…いわゆるボットン便所の方式で糞尿をリサイクルさせたのだ。これだと便所は臭いが町中はだいぶ清潔になるし、肥を肥料として利用させることで農村の生産力も上がるという江戸時代式な一石二鳥な作戦だ。


 便所以外の排尿排便は可及的に禁止し…代わりに特に小用のための共通便所が各所に設けられた。そしてその多くは硝石丘を作れるように工夫していたのだ。


 と便所の話ばかりで申し訳ないが、こうして新都、飛鳥浄御原宮…本当は数代後の命名だがまぁ『きれいな街』的なイメージだとこの名前がぴったりだったので…は世界でもまれに見る清潔な都市になった。


 その中核宮殿は周礼に基づき3つずつの門を備え、そこを中心に9条の大通りが南北に伸びていた。周辺は水路ついでにあまり幅は広くないが堀を作り、低いとはいえ土塁と壁を作って都城の体裁をなした。まぁ大きな石の壁とかないし見た目は『都城』というより『でっかい日本の城』という風情になってしまったが(汗)


 このように大規模な土木工事に勤しんだ朝廷であったが、怨嗟の声は天皇のところには集まらなかった。


 というのは『全て上皇と太閤が仕組んだことであり、天皇は民のために必死に止めようとしていたが、防ぎきれていないのだ。』という体裁を取っていたからなのだ。


 ここで太閤、と書いたが俺は宝女王が天皇を退いた際に一緒に関白の座を退いて太閤になった。そして二人(と本当は中大兄皇子改め今上天皇陛下と中臣鎌足も一緒に企んでいたがのだが)は飛鳥京の建設に熱中すると共に巨椋池の北に伏見の屋敷を築いてそこを隠居所としたのである。


 それとともに右大臣も辞官して俺は前右大臣、すなわち前右府さきのうふとなったのである。ぐへへ。これで俺も織田信長に並んだぜ。


 先の大坂城攻撃で落ち着いた指揮を見せた内府(内大臣)中臣鎌足は藤原のかばねを賜り…これは本当だと死ぬ直前に名誉的に与えられたものだが…ずいぶん早くもらってしまった…その上今回の功績を讃えて『征夷大将軍』に任じられたのである。


 もちろん名称は俺が口走ってしまったためにそうなってしまったのだが。源氏じゃなくて藤原氏が将軍になってしまったが…ま、いいか史実でも初代征夷大将軍は坂上田村麻呂で東漢あずのまあや氏だし。と気にしたら負け、と思うことにしたのであった。


次はついにあの大戦が始まりますです。

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[一言] チート系転生者に一番やって欲しいこと、それは当時の街並みの絵だとか建物の設計図とかを後世に残してほしい 時代は遥かにまだあとだけど雲太和二京三とか
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