有馬皇子、大仏を建立する
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軽大王が有間皇子を残して難波宮(大坂城とも言う)で世を去った。
有間皇子は早々に大王に即位させるように度々飛鳥の宝天皇へ使者を送ってきたが、天皇の返事は素気ないものだった。
「軽大王の殯がすんでいない間の即位は認めぬ。」
それに対して有間皇子は軽大王の『華美な葬礼は避けよ』との遺言を盾にとって早々に葬儀を行おうとしたが、そこに中臣鎌足が使者に訪れた。
「天皇からの言伝です。軽大王は仏法を我が国に広めようと奮闘なさっていた。」
有間皇子は答えて
「確かに父は仏法を我が国に定着させることこそが我が国の改革に必要、と常々話していました。」
「であるから皇子は大王を偲んで、大仏を建立するべし、との陛下のお言葉である。」
「大仏…とはどれほどの物なのでしょうか。」
「高さ60丈(16m)ほどのものだ。」
「そんな物は唐にもなかなかないのではありませんか!」
「天下一の大仏を建立し、その開眼供養を成し遂げたときこそ、皇子が大王に即位するときであるとすめらみことはおっしゃっている。」
「…わかりました…」
有間皇子は大仏建立を渋々ながら了承した。大仏は山背法皇(元山背大兄王)が根拠地の一つとしている山城の国がよいだろう、ということになった。
山城国は山背法皇を支える秦氏の根拠地であり、太秦というのは秦氏から取られた名称である。その太秦の北方の地に大仏を建立するのが良かろう、ということになった。
大仏を建立するためには困難が多かった。まず件の山城の予定地は開けていて都すら作れそうな場所であったし、有間皇子の本拠地である難波からは巨椋池へ登り、そこから宇治を経てほど近く、交通の利便も良かった。
しかし鴨川はしばしば氾濫し、大仏を建立する以前に治水が必要な状態であった。
有間皇子は大王の遺産を使い、秦河勝に命じて鴨川に堤防を作った。そしてようやく落ち着いた建設予定地に寺院を建て始めたのだが…まずこの時代、そもそも銅が国内で生産されていなかった。有間皇子は難波宮の財力をつぎ込んで銅などの資材を求め、人々に大仏の建立の協力をさせようとしたが…ほとんど協力は得られなかった。
だって有間皇子の父、軽大王の政治は正しくはあったもののその杓子定規さにまるで人気がなかったので。
奈良の大仏の建立のときは、諸国を巡って溜池を作るなど人々に尽くして人気がある行基に協力させて、資材や人員を集めることが出来た。その行基に当たるこの時代の人物は道照である。
しかし道照は軽大王の仏法への考えを『上辺で権威を求めているだけである。』と喝破してまるで取り合わず、むしろ俺、蘇我鞍作や大海人皇子と親しくしていたのであった。
故に民衆からの支持も全く集まらず…それに繰り返しになるがそもそも銅は取れていないので輸入しなければならなかったのだ…山城の大仏の建立は遅々としてすすまなかった。
ついに有間皇子は銅で大仏を建立することを諦め、楠の大木を削って大仏…さすがに大きさは7mほどのものになった…を作らせた。慌てて作ったこともあって大仏は神々しいというよりなんというかユーモラスな間の抜けた顔のものになってしまった。さらに元となった大木が神木と崇められていたものであったため、ますます民衆の怨嗟は有馬皇子に向いた。
そして大仏殿を建てるのにも資材に難渋して、大坂城の建物を一部取り壊して転用する始末となった。寺の体裁を整えるために大きな鐘が鋳造された。そしてその鐘の材料は、地方の諸豪族の墳墓や古墳を暴いて銅剣や銅鐸などの副葬品をかき集めさせたものであった。
このことで有間皇子は諸族からの支持も決定的に失った。大仏殿の土地を提供した秦氏すら
「当家は元来山背法皇様や蘇我氏に従ってきましたので。」
とそれ以上の協力を拒む状態であった。
ともあれ、どうにか寺と大仏の体裁を整えた有間皇子は宝天皇や中大兄皇子、そして俺関白蘇我鞍作などを招いて大仏開眼の儀を執り行うと書をよこした。
その書を持ってきたのが有間皇子に使える俺の従兄弟、蘇我赤兄であった。
「…有間皇子のお招きは相わかった。しかしこちらとしては質したい事がある。」
と赤兄に応対した内府、中臣鎌足が尋ねた。
「その寺…『国の行く方向を広く定める』とのことで方広寺というのだな。」
「そのとおりでございます。」
「秦河勝からの報告によれば、方広寺の鐘に『宝断日道足(宝を断って日の道を足らしめ)天有間栄(天ある間さかえる)』と碑文が刻まれていると。」
「それは質素を重んじた先の大王のお心を示した物と。」
「…宝を断つというのは宝女王様を害する、という意味。さらに日道足、これはすなわち宝女王の別称、日足姫の名を分けている。これはすなわち陛下の胴と首を分けん、とする意思であることは明白。」
「…なんと…」
赤兄の体が震えている。
「さらに天有間栄というのは『天によって有間が栄える』という意味!これは帝を害し、自らの栄達を願った碑文であるのは間違いない!こんな物を認めることができるか!!」
と鎌足は赤兄を一喝した。
「こうなれば帝への叛意がなく、これからも共に手を携えて国のために尽くしていきたい、というならば有間皇子は大坂の城を出て他所に宮殿を移すほかないのでは?」
「この赤兄の一存では答えられませぬ…難波に持ち帰らせていただきます。
狼狽えながらも赤兄は木簡に問題点を記した。赤兄はなかなか有能なのだ。そして大坂城を放棄して飛鳥宮に屋敷を構える、等の条件を持ち帰って有間皇子と協議することになったのだった。
…その数日後、服がボロボロになった赤兄が俺の屋敷に飛び込んできた。
「赤兄、どうした?」
「有間皇子様は大坂城を出る、という条件に『そうやって俺をおびき出して誅殺するつもりであろう。赤兄、お前も帝や関白の手のものなのであろう!』と言われましておやめください、と申し上げたのですが、『こうなったらやるかやられるかだ。我は大坂城で立ち、宝女王や蘇我鞍作を討ってこの国の正しい大王に就く!と。反逆でございます。』
こうして有間皇子は側近、蘇我赤兄を追放した。
その事が引き金となり、宝天皇は有間皇子を討つ勅命をくだされた。そしてその総大将には内府中臣鎌足が命じられたのである。




