蘇我鞍作、法についてかたる
軽大王は大阪城で一人政務に勤しんでいた。
一人、というのは軽大王が極めて真面目な性質なため、領土争いから水の争いから盗賊の知らせ、汚職の報告(たいてい報告した方も汚職していてなすりつけ合い)等など、民事、刑事に関わるあらゆる裁断を自分で行おうとしたためであった。(ほぼ史実)
その裁断は丁寧で双方の言い分と証拠を精査・熟慮して下すもので…極めて正しくはあったが、とにかく時間もかかり、案件が山積みになり、『陳情する者の列が難波に収まらず飛鳥まで続いている』と陰口を叩かれる始末であった。
軽大王の裁断は厳密ではあるが、時間がかかり、厳密であるがゆえに法(律令)を重視して訴えたものも訴えられたものも納得がいかない結論が出ることがままあり…そのうち人々は時間がかからず宝天皇がざっくりした感じで下す裁定を求めて乙巳の変から建て替えたシン・アスカ級じゃなくて新飛鳥宮に行くようになってしまったのであった。
そんなある日、中大兄皇子と中臣鎌足が俺の屋敷にやってきた。
「関白鞍作、どうして軽大王のやり方は上手く行かないのであろう。大王は唐の律令をほぼ取り入れた大化律令を定め、唐の国策に則って公地公民等の制度を取り入れたではないか。唐には出来てこの日本では上手く出来ないというのはなにか足りないことがあるのだろうか。」
と中大兄皇子が俺に尋ねてきた。俺は
「唐の律令はこの現時点においては優れた法でありますが…そもそも法があればうまくいくということではないのです。」
「というと?」
「唐自体がつい数年前に成り立った国なのは皇子様も覚えておいででしょう。聖徳法皇様が使者を送ったのは隋でした。」
「うむ。そうだったな。」
「ですから唐、特に太宗李世民が偉大な皇帝であることは疑いがありませんが、その出来たばかりの唐の法律が優れているかどうかはまだわからないのです。しかし律令というか整った法がないと国としての体裁がつかず、唐と渡り合えないのも確かです。とは言っても唐の律令の骨格は要は漢の物で、漢の物は元をたどると周のものなのです。さてここで問題なのは周は神聖視されていてその律を無批判に取り入れています。しかし下手すると千年ほども昔のやりかたを今あてはめてもうまくいくでしょうか?」
「うーん。それは難しそうだな。」
「そのとおりでございます。ですから唐の、すなわち周の法律をそのまま我が国に当てはめても到底上手く回るはずはないのです。」
鎌足が腕を組んで考えている。そして口を開いて
「では今の世にあった法律にあらためてはどうでしょうかな?」
「それは素晴らしい考えです。ぜひそうするべきでしょう。しかし良い法律があればうまくいく、というわけではないのです。」
「といいますと?」
「そうですね。一つ話をいたしましょう。蝦夷、あ。私の父のことではなく北の方の越の彼方の土地のことですが、そこに伊達稙宗という偉大な豪族がいたのです。」
大名といかいうとわかりにくいから豪族にしておく。いた、じゃなくて1000年ぐらいしてから生まれるけどな。
「稙宗は塵芥集という素晴らしい法律を作り上げました。それがあれば今軽大王が苦労しているような案件をズバズバ片付けられるようなものです。」
「おお、ではその伊達という豪族はよほど栄えたのであろう。」
「それがですね、やれ法から外れた特権を寄越せだの言うものが押し寄せてですね…伊達稙宗は戦ったのですが、結局敗北して押し込められてしまったのです。」
「なんと。」
「ですから法がいくら優れていてもそれを実行する力がなければどうにもならないのです。中華の伝説的な周が上手く行ったのも周公旦という偉大な宰相がいたからで、その周公旦にしても何度も叛乱軍を鎮圧しています。」
それを聞いた中大兄皇子が言い出した。
「そうなると律令などの方を執行する手足となるものが必要で、軽大王にはそれが欠けているということか。」
「御意。」
「ならば大和の旧弊に囚われた豪族どもにやらせるよりも元々先進的な気風になれた渡来人を主体にさせるほうが良さそうだな。」
そこに中臣鎌足が口を挟む。
「海北の人々ばかりに任せるとなりますと、律令の実行は百済などの人々、崇めるのは仏法、と我々倭の人々の伝統や思いはどうなってしまうのでしょうか。」
「鎌足よ、そんなものよりも日本が唐に伍するような国に生まれ変わるほうが大事なのだ。」
と中大兄皇子はいう。鎌足は
「わかりました。」
といいつつも首をかしげたままであった。
この問答で話されたように軽大王の『正しい改革』には付いてくるものはわずかだった。
無理やり5層で建てた天守を持つ大坂城(難波宮ともいう)の威容は三韓や唐の使者を驚かせた。
唐の使者は大坂城のことを『魏武(曹操のこと)の銅雀台(魏の首都ギョウに建てた高さ33mを誇った宮殿)を上回るかもしれない。』と書き送った。国際的には十分我が国の力を示す効果があったようだ。
その一方で宝天皇に挨拶に来た際、新飛鳥宮が周礼に定めた王城に則って作られていることにもっと驚きを感じていたようであった。
新飛鳥宮は周礼に従い9里四方に各方に3つずつの門を設けていた。一里が4kmの日本式だと36kmの巨大な都城が出来上がってしまう(それを目指したのが後の藤原京や平城京)が、そこは俺が『唐時代の一里は400m!』と定めたので諸屋敷官公庁込で3.6kmに収まったのだ。諸説あるがここは一番短い説を採用してコンパクト化したぜ。
新飛鳥宮については後でまた書くとして、諸外国の使者は『国の勢力を誇っているのは難波宮(大坂城)だが、人の姿はほとんどなく、幽鬼のように過ごしていた。そしてその内陸にある飛鳥宮こそが真の王城である。』とさかんに書き残していたのだ。
史実では難波宮を宝女王(皇極上皇)や中大兄皇子が引き払って飛鳥に帰ったことで孝徳天皇(軽皇子)が落ち込み体調を崩していくが…引き払うまでもなく建物の威容こそあるものの寂れる一方の難波と、人々が集まって発展していく飛鳥の姿に軽大王は病気がちになった。
そんなある日、俺は軽大王に呼ばれて大坂城(難波宮)に行った。
「おお、関白か。お主の見立て通り朕のやったことは空回りであったな。」
「大王はよく努力されていたと思います。」
「…言うな。しかし宝天皇がいることで朕に不満がある者が飛鳥に行ってしまった。」
「不満が御身に集中して革命を起こされるよりはマシだったのでは?」
「…まぁそうともいえるか。」
と自嘲気味の軽大王。
「朕はもうだめだ。関白よ、遺言するから皆に伝えてくれ。」
「御意。」
「大王の座は我が嫡男、有間皇子に継がせる。どうせ中大兄皇子は大王の位はいるまい?有間皇子は大坂城で即位し、我が無念を晴らして天下を正しい道に導くように。」
「有間皇子を支えるものはいかがなさいますか?」
「…名のある大身の物はほとんど残っておらんからな…」
「では我が従兄弟、蘇我赤兄を付けましょう。我が一族でも俊才と言って良い男かと。ちょっと肥えてますが。」
「おお、赤兄なら間違いないな。」
「お喜びいただけてよかったです。では辞世の句を読まれますか。」
「ふん。朕には洒落た辞世の句も浮かばん…なにかないか鞍作。」
「では『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』では?」
「おお、それはよい。それで行こう。」
…豊臣秀吉さん、パクってごめんね。後で使えなくなるとヤバいからもし歴史書を編纂する機会があったら抹消しておくからね。
こうして軽大王は大阪城で世を去った。秀吉は伏見城だったけど、まあそこはそれで。




