大化の改新と大坂城
乙巳の変あらため蘇我鞍作襲撃事件(鞍作が死ななかったので)の後、大王宝女王は勅を発した。
「今回の朝堂で大臣が襲われるという凶事を悲しく思う。よって余は世の中を革めるため大王の座を軽皇子に譲る。」
「では宝女王様はこの後いかがなさるので?」
「それにつきましてはこの中臣鎌足から説明いたします。」
と鎌足が説明を始めた。俺が言い出すより鎌足が話したほうが官房長官ぽくていいじゃない。
「まずは朝廷の仕組みを改め、冠位を数字にします。一番上から正一位、従一位、正二位、といったように従八位の下大初位、少初位までの三十段階にします。」
本当は天武天皇が位階を増やしてやたらにややこしい名前をつけた後に養老律令で整理されて数字に変わるのだが、面倒なので最初から数字にするぜ。
「大臣、大連の制は廃止し、左大臣、右大臣、内大臣、大中小納言などの役職を置き、それぞれの下に官庁を置きます。左大臣に巨勢徳多、右大臣に蘇我鞍作、内大臣は僭越ながらこの中臣鎌足が勤めさせていただきます。内大臣は通称を内府とお呼びください。」
鎌足くん最近貫禄出てきたからきっといい狸になれるよ!と俺は心のなかで思った。そしてここで群臣からおお、という声が漏れた。
「蘇我鞍作が最高位の左大臣ではないのか…」
「蘇我宗家が位を譲るとは…」
とその真意を訝しんでいるようだ。
ふふふ。これは単純に俺の趣味だ。右大臣といえば右府様だ。右府様といえば源頼朝に織田信長に徳川家康ではないか。実質天下人の官職こそ右府様、と俺は思っているのだ。
「蘇我鞍作様が左大臣でないことですが…」
と鎌足が説明を始めた。マジ鎌足さん官房長官。
「鞍作様には新しい大王の下でも政務をとっていただきます。しかしこの度、宝女王様は大王を退かれた後、天皇の座に就かれます。
「すめらみこと?それは一体?」
「天皇は唐風にはてんのう、読みます。一人称は『朕』、呼び方は主上もしくは帝とお呼びしても良いと。
世俗の政治を司る大王に対して天皇は世の祭事を司り、諸神社や寺などを司ります。そして世の正しいことを助け、誤ったことを糺す、この世を見守るいわば現人神のような存在です。」
「…なにそれ?」
という怪訝な反応である。そりゃ象徴的な立憲君主的かつ中華皇帝と同格になろうという存在だからな。ぱっと言われてわかるまい。
「では我々は大王と天皇のどちらの指図を受ければ良いので。」
とおずおずと一人が申し出た。
「それは世のことは大王様に任されておりますから大王にです。そもそも中華では多くの王が立ち並んでおりました。その王を束ねる存在、王の王が皇帝というわけです。そして天皇はわれわれ倭改め日本の皇帝というわけです。ですから大王が正しく政を行っているならば何も問題がありません。」
「では万が一大王様が間違えたときは。」
「大王様ともあろう人が間違えをするとは思えませんが…過ちを糺すのが…ということです。」
みなわかったようなわからないような顔をした。
「倭を日本に国号を革めるのは。」
とここで山背大兄王改山背法皇が話しだした。
「わが父聖徳法皇が隋に使いを送った際、『日出処天子、日没処天子に』と書き送ったことが元になっております。すなわち我が国は日輪の加護を受けた仏法の光あふれる聖なる国であると。」
仏法はちょっと余分だがだいたいその通りだ。その説明で国号については皆納得してくれたようであった。
「さて鞍作様のことですが。」
と中臣鎌足が続ける。
「鞍作様には政についてはこれまでの経験を生かして一歩引いて全体をよく眺めて指導していただこうと思います。そして『関白』の座についていただき、天皇の意向を大王に伝える仲立ちのような立場になっていただくことになります。」
「関白とな。」
「天皇を私的に輔ける立場の者です。」
「摂政とは違うのですか。」
「摂政は大王が年若く、政務を代行するものです。関白は成人した天皇をお輔けするものと。」
こうして俺はついに関白の座に就いた。というか関白が成立するのは何百年も後の話なのだが。いいのだ。これで右府と関白を兼ねて天下人な気分なのだ。
ちなみに中大兄皇子は天皇と大王、どっちを継ぐ立場になればいいの?という結論は、話し合ったのだが結論が出なかった。
そのためとりあえず『宝女王の嫡男だから天皇の皇太子でいいんじゃない?』ということになった。
また現政権でも実質的に動けるようにするため、実際には大化の改新の際は制定されていなかった太政大臣を新設して中大兄皇子はその地位に就いたのであった。
天皇と大王の二重権力に疑いの目を向けながらも軽皇子は大王に即位した。
即位後、軽皇子は予定通り大化の改新の詔を出した。
1.それまでの大王の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)
2.今まであった国、県、郡などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。
3.戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
4. 公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
後法律である律令を完成させればまさに軽皇子がやりたかった唐や半島諸国のような中央集権国家の成立である。
軽大王、と呼ぼうは宝天皇の影響が強い飛鳥を嫌い、河内湖に突き出た半島に難波宮と都の整備を始めた。
しかし話はそうは上手く行かなかった。国や郡の整理こそある程度は上手く行き、大和、河内、摂津、山城、などなど後の時代に用いられた国の形にだいぶ近づけて行くことが出来た。
それにより各国などの管轄がわかりやすくなり、国衙などの仕事は進めやすくなった。
しかしそこまでだった。
まず公地公民自体がうまく行かなかった。中大兄皇子は自らの領地や民を差し出してみせたが、それは『どうせ自分が後継になれば自分のものになる』という計算によるものだった。宝天皇すら
「祭祀に必要。」
と言い捨てて差し出さず、軽大王が
「世に示しが付きませぬ。」
と迫ると自らの持ち分の殆どを次男の大海人皇子に譲ってしまったのだ。所属も蘇我赤兄兄弟たちは大王に差し出したが巨勢や阿部、大伴などは動かず、結局税も中央政府が集めて管理するのではなく、各豪族などが自らの所領から集め、自分たちの必要な分を中抜し、それから政府に渡すという有様であった。
そのため名目上は中央で税を管理するようになっていたが…その実収入は予定したものよりも遥かに少ないものとなってしまった。
その上国郡の整理などにかこつけて境界争いが頻発したり、争い合う勢力が互いに相手が民や土地を横領したり税を奪っている、と軽大王に訴えた。
軽大王はそこでブチ切れて言うことを聞かない豪族の一つでも滅ぼせばもしかしたら諸氏もいうことを聞くようになったかもしれない。しかし真面目な軽大王は訴え一つ一つを真面目に自ら審理して、かつ軽微な罪でも糾弾した。
糾弾される方としては気分は良くないが、軽大王側からは詰問の使者が来るだけで特に攻め滅ぼされたりすることもなかったので早晩公地公民制は形骸化した。
自らの思い描いた制度があっという間に骨抜きにされた軽大王は人が信じられないようになった。
そんなある日、軽大王は俺のところにやってきた。
「大王様、いかがなさいました?」
「蘇我関白よ、私は世を正しい方向に導こうとしている。」
「大王のなさっていることは唐にも劣らぬ正しい道だと思います。」
と俺はいけしゃあしゃあと言った。
「だが、世のものはごまかすことばかり考えせっかくの新しい制度を骨抜きにしている。そのようなことでよいのか!」
「人が新しいことを受け入れるには時間がかかりましょう。もしくは力が。」
「その力を持っているのは天皇と関白ではないか。」
「でしたら大王様も力を持てばよろしいのでは?」
「それはどうするのだ?」
「大王様、おそれながら大王様は我が蘇我の畝傍山城を落とすことは可能でしょうか?」
「あの城をだと?…高櫓が並び、堀も深く10倍の兵を持っても落とすことは難しいと言われるあの城か。」
「私はいざとなったらあの城に逃げ込んで待つことが出来ます。」
「ならば朕もあのような城を持てばよいということか。」
朕、という一人称は天皇に認められたものだ。野心隠さないねぇ軽大王。
「御意」
と俺は答えた。
「この難波宮の場所は河内湖に突き出たまさに要害の地にあります。ここを大いなる地、すなわち大坂と名付け、天下無双の大坂城を気づけば、万民が陛下に跪くでしょう。」
「さすがは関白。ならばその大坂城、築いてみせようぞ。」
と乗せられ、軽大王は難波宮あらため大坂城の築城を始めた。もちろん本物のような高石垣とは行かないが、百済の技術者も招いて石垣を積み、この時代なりの大坂城をついに作り上げてしまったのである。
その姿を見て、俺はほくそ笑んでいた。
「鞍作、ニヤニヤしてどうしたのじゃ。」
と腕枕をされながら宝女王改帝が聞いてくる。
「大王の大坂城ですが、思ったとおりやりすぎました。」
「やりすぎ、というのは。」
「あの様な巨城を築き、民に負担をかけて世の中は怨嗟の声に満ちております。」
「…となればそろそろやりどきか。」
「御意。」
「ふふふ…それでこそ妾が見込んだ男よ。」
と俺に私的に会っているときには『朕』を使わない帝様なのである。
「良きに計らえ。」




