“戻ったら夫婦に”――その言葉の裏で
◇ セーヴ城 レイの部屋
冬だというのに、柔らかな日差しが部屋に差し込んでいた。
昼下がりの静かな茶の時間。
レイは、向かいに座る夫・セージを見つめていた。
視線に気づいたセージが、ふわりと微笑む。
「レイ、どうした?」
その声に、胸が小さく跳ねる。
見つめ返されるたび、呼吸が浅くなる。
「・・・いえ、何も」
レイは耐えきれず、視線を落とした。
沈黙が落ちたまま、しばらく時が流れる。
落ち着かない空気に耐えきれず、レイはゆっくりと顔をあげた。
けれど――
セージはまだ、じっとレイの顔だけを見つめていた。
その目と視線が絡むたびに、レイの心臓は大きく跳ねる。
ーーどうして、そんなふうに見るの。
初夜まで、あと三日。
「夫婦になる」と誓ったあの日から、
セージは頻繁にレイの部屋に顔を見せるようになった。
だが――彼が来ても、どう振る舞えばいいかわからない。
相手は成人し、領主となった男。
レイは自分でも理解できない気恥ずかしさに圧倒され、
あまり話せなかった。
自分のような子供と話しても、セージは楽しくないだろうに違いないと考えた。
けれど、セージの淡い青色の瞳が自分を捉えると――
胸の奥は落ち着かなくて、息が浅くなる。
「身体は・・・大丈夫か?」
少しぎこちない口調で、セージが尋ねる。
「だ・・・大丈夫です」
レイは頬を赤らめたまま答えた。
「・・・そうか」
セージは何か言いかけて、ほんの一瞬、躊躇った。
それから、静かに手を伸ばす。
レイの指先を、包むように。
「・・・っ!」
小さな驚きがレイの身体を震わせる。
セージは、そのままほんの少しだけ顔を寄せた。
指先も、頬も、息も、熱くなる。
ーー近い。
あと一歩で、唇が触れる――そんな距離。
レイは息を呑み、セージの青い瞳が視界いっぱいに広がる。
セージの喉が、かすかに鳴った。
「レイ・・・」
その名を呼んだ声は、これまで聞いたどの声よりも低く、甘かった。
その瞬間。
ドン、ドンッ!!
部屋の扉が激しく叩かれた。
「ひ・・・っ!」
レイは跳ねるように肩を震わせた。
セージもびくりと手を離し、
「・・・入れ」
少し乱れた息を整えながら、低く命じた。
扉がゆっくりと開く。
ノックの音に続いて開いた扉の向こうには、家臣が立っていた。
手には、白い書状。
「レイ様。ご実家――トミ家より、お手紙が届いております」
「・・・実家?」
レイは一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
“実家”と呼ばれる場所が、自分に本当にあるのか。
そう思ってしまうほど、この一年、手紙は一通も届かなかった。
だが、家臣が差し出した封筒に押された封蝋の紋章を見て、胸がきゅっと縮む。
――トミ家の旗印。
「ずっと・・・手紙は来なかったのに」
争いが始まってから一年。
トミ家とセーヴ領の領交は断たれ、往来はすべて止まっていた。
震える手で、レイは書状を受け取る。
「緊急のお知らせのようでございます」
家臣の慎重な声に、胸騒ぎが広がる。
レイは封を切り、几帳面で美しい文字を目で追った。
「・・・この文字・・・誰?」
封筒の裏に、小さく書かれた名があった。
レイは、その文字を見つめたまま動けなくなる。
――イーライ。
息が、止まった。
あの冷静な家臣が、緊急と記してよこした手紙。
嫌な予感が、指先まで冷やしていく。
紙めくると、レイの黒い瞳が大きく見開かれていった。
「・・・姉上が・・・危篤?」
膝が抜けそうになった。
あの強くて、美しくて、孤独に負けない姉ユウが。
床に伏せ、自分の名前を呼んでいると書かれている。
「そんな!」
青ざめて震えるレイの横で、セージも静かに手紙を読み終えた。
「レイ。見舞いに行ったほうがいい」
セージは沈痛な声で言った。
「・・・よいのですか?」
「この文に書いてある。“面談を希望している”と。
トミ家の方でも、レイを迎える準備が整っているとある」
レイの黒い瞳が潤む。
「・・・それなら行きたいです」
「行ってあげろ。大事な姉上なのだろう?」
セージはそっとレイの頭を撫でた。
優しい手のひらに、レイの瞳が揺れる。
「すぐに支度を」
セージが命じると、家臣は深く頭を下げて部屋を出た。
「サキ、荷物をまとめてくれ」
「はい!」
乳母サキは急ぎ足で部屋を出ていった。
残されたのは、セージとレイだけ。
セージの横顔が、いつもより少しだけ寂しげに見えた。
「・・・トミ家は今、サカイという場所にいるらしい。道中、気をつけて行け」
レイはそっと立ち上がり、深く頭を下げた。
「・・・ありがとうございます、セージ様」
支度を整えるために歩き出したその時――
レイはふと足を止め、セージの前に戻った。
「レイ、どうした?」
セージの淡い青い瞳が、不思議そうに瞬く。
レイは、小さな胸の前でぎゅっと手を握りしめ、
恥ずかしそうに視線を揺らしながら口を開いた。
「・・・あの・・・」
「?」
息を吸い、覚悟を決めるようにまっすぐ顔を上げる。
「見舞いから戻ったら・・・夫婦になりましょう」
その黒い瞳は恥じらいを含みながらも、凛と真っ直ぐだった。
セージは一瞬、呆けたように口を開け、
次の瞬間――堪えきれずに笑った。
「・・・レイ・・・」
そっと腕を伸ばし、華奢な身体を抱き寄せる。
レイの頬が一瞬で真っ赤になる。
耳元で、低く甘い声が落ちた。
「・・・楽しみにしている」
レイの心臓は、姉の危篤とは別の意味でも、激しく揺れていた。
◇ トミ家の軍 山中の待機地点
冬の夕日が山の稜線に沈みかけ、
木々の隙間から細い金色の光が差し込んでいた。
冷えた空気の中、
トミ軍は息を潜めて山の陰に潜んでいる。
馬の鼻息すら白く、音を立てないよう抑えられていた。
ノアは馬上で帽子の庇を少し下げ、
街道を見下ろせる位置に静かに陣取っていた。
その緊張を破るように、ひとりの兵が駆け戻ってきた。
「エル様! 報告いたします!」
エルが顔を上げる。
「レイ様の乗られた馬車、先ほど街道を通過。無事、サカイ城へ向かわれます」
わずかな瞬間、ノアの肩から力が抜けた。
胸の奥で張りつめていた糸が、少しだけ緩む。
ーー間に合った。レイ様は、あの軍勢を見ずに済んだ。
ほんの一瞬、ノアは静かに目を閉じる。
だが、エルは違う表情をしていた。
報告を聞いた瞬間、
まるで計算がすべて整ったかのように眉をわずかに動かす。
ーーこれで、ユウ様と兄者がぶつかる要因は消えた。
レイ様を逃すことができたのだ。
家中が揺らぐ火種は避けられた。
エルは馬の首を軽く撫で、ゆっくりと立ち上がる。
夕日が背に差し込み、影が長く伸びた。
「・・・よし」
エルはゆっくりと息を吐いた。
「レイ様の馬車は、サカイへ向かった」
それだけで、すべてが整った。
「我らは――セーヴ城へ向かう」
その声に、迷いはなかった。
山中に潜んでいた兵たちが、ざっ、と一斉に顔を上げる。
その気配に、空気が変わった。
静かだった山の空間が、
一瞬にして“軍の動き出す気配”に満たされる。
ノアは黙って頷いた。
夕日が完全に沈む前に、トミ軍は山を抜け、
静かに、しかし確かにセーヴ城へ向かって動き出した。
その足音はまだ誰にも聞こえない。
けれど――レイの運命が、大きく動き始めていた。
次回ーー明日の20時20分
レイの馬車が城を出て、数時間後。
セーヴ城は、静かに包囲されていた。
告げられたのは、
領地没収、妃レイの返還。
交渉人として現れたのは、かつて剣を交えた男――ノア。




