出陣前の誓いーー揺れる想いと、姫をめぐる三つの影
翌朝。
まだ霧の残るサカイ城で、エルは小さく息をついた。
その前で、リオウが膝をつく。
端正な顔には、緊張が残っていた。
エルは静かに告げる。
「リオウ。兄者より、ワスト領の一部を預ける話が出ている」
リオウは息を呑んだ。
「領地とは恩であり、重荷であり、誓いそのもの。
トミ家に身を寄せる以上――リオウはこの家に忠を誓わねばならない」
拳を握るリオウ。
姉メアリーの夜の願いが、胸にすぐに浮かんだ。
ーー姉上は、家のために身を投げたのか。
「コク家は名門。
セン家と縁深く、モザ家ともつながる。
トミ家の柱のひとつとなるべき家だ。
リオウ、お前の誓いがあればこそ、この領地は“生きる”。
誓いなければ――ただの“毒”になる」
リオウの胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていった。
覚悟を飲み込むように、深く息を吸う。
「・・・私は、トミ家に従います」
震えた声は、しかし確かな覚悟だった。
エルはリオウの瞳を見つめた。
「誓えるか。兄者に忠を尽くすと」
リオウは顔を上げる。
迷いと痛み、その奥にある静かな決意。
――姉上が開けた道ならば。自分は、その道を歩く。
「はい」
エルはわずかに瞳を伏せた。
弟の痛みを理解しながらも、表には出さない。
出してはならない。
「では、兄者にリオウの忠を伝えよう」
エルが立ち上がる。
朝の光が差し込み、リオウの影が長く伸びた。
その影は――
昨夜、メアリーが差し出した身体と重なって見えた。
こうして、リオウは小さな領土の主となった。
リオウが去った後、エルは小さなため息をついて、独り言を呟く。
「・・・兄者は、女に甘すぎる」
――兄、キヨは国王になりかけている。
その才は天のもの。
誰よりも速く、誰よりも強く、そして誰よりも“人の心”に近かった。
だが、その兄にはただひとつの穴がある。
女の願いに、あまりにも弱い。
政治に女を利用することにも、
女の願いを政治に通してしまうことにも、兄は迷いがない。
それが彼の強さであり、最大の隙でもあった。
エルはそっと息を吐いた。
「兄者の弱さを、我らが支えねばならぬ」
国が続くには、力だけでは足りない。
兄の欠点を補う者――それが自分の役目なのだ。
◇
そのころ――ユウはまだ、リオウが“覚悟”を決めたことを知らなかった。
季節はゆっくりと進み、数日が過ぎた。
◇数日後、サカイ城 中庭
「リオウ、おめでとう」
ユウの声が、冬の空気の中でやわらかく響いた。
雪を含んだ冷たい風が、二人の間をゆるやかに通り抜ける。
リオウは長いまつ毛を伏せ、深く頭を下げた。
「・・・ありがとうございます」
本館と、ユウが暮らす離れをつなぐ中庭。
薄く雪が積もり、踏みしめれば、きゅ、と乾いた音がする。
ユウの背後には、シュリが静かに控えていた。
冬の昼の光は弱く、三人の吐く白い息が淡く空へ溶けていく。
「姉・・・のお陰です」
リオウは苦しそうに言葉をつないだ。
「・・・メアリー様には、感謝を伝えないと」
ユウはぎこちなく答える。
「・・・はい」
答えたものの、リオウの表情は晴れない。
コク家が“復興”したのは喜ばしい。
だが――その道を開いたのは妾である姉、メアリー。
姉が身体を張って家の未来を繋いだと、痛いほど分かっていた。
「・・・どんな形であれ、夢が叶ったのは、喜ばしいことよ」
ユウは優しく慰めるように言った。
コク家の再興、それはリオウがずっと口にしていたものだった。
だがリオウは小さく首を振る。
「・・・できるのなら、私自身の手で・・・未来を切り開きたかった」
吐き出す息が、白く震えた。
「けれど、姉のためにも・・・私は頑張りたい」
握った拳に、強い力がこもる。
ユウは静かに頷いた。
その横でシュリは、何も言わずただ二人を見守っている。
リオウはゆっくりと顔を上げた。
黒い瞳が、まっすぐユウを捉える。
「私は・・・ユウ様を迎える立場になります」
冬の風が一瞬止まったように、空気が凍りついた。
ユウは小さく息を呑む。
その胸の奥に、痛みとも熱ともつかないものが広がった。
――何も、言えない。リオウの気持ちに応えることはできない。
リオウはその沈黙を受け止めるように、静かに続けた。
「私の夢は・・・一歩進みました。これから、もっと領土を広げて・・・」
声が少し掠れた。
それは、夢というより――自分に言い聞かせる誓いのようだった。
リオウが一歩前に進み、ユウの手を握ろうとした。
その時――中庭の端を歩いていたノアが、三人のそばを通りかかった。
ユウを見つけたノアは、足を止めて静かに頭を下げる。
「ノア」
ユウの表情がふっと緩んだ。
胸の奥で張りつめていたものが、少しだけほどける。
――よかった。
このままリオウと二人きりなら、息が詰まってしまいそうだった。
「本館の方は・・・随分と慌ただしいようね」
空気を変えたくてユウは、ノアに質問をした。
ノアの横顔は、冬の光を受けてどこか陰を帯びて見えた。
これから向かうのはセーヴ領―― 若き領主セージを城から追い出す、冷徹な役目。
それを担っているのは、ノアだった。
胸の奥に、重い石を抱えたような息苦しさがある。
だがこのことは口にできない。
出陣先は、緘口令が出ていた。
ノアはそれを悟らせぬよう、沈着な表情のまま答えた。
「ええ。出陣の支度が、ようやく整いました」
「リオウ、お前も明日出陣だ。準備をするがいい」
ノアは淡々と告げた。
「え・・・明日ですか」
リオウは驚いた顔を向ける。
「あぁ。急な取り決めだ。明日、エル様から話がある」
「承知しました」
リオウは深く頭を下げ、名残惜しそうに中庭を去っていった。
残されたのは、冬の白い息を浮かべる三人――ユウ、シュリ、ノア。
周囲を見渡してから、ユウはそっと囁いた。
「ノア・・・あなたは、あの争いの時に、
レイの夫、セージ様の命も・・・守ってくれたわね」
ノアは、はっとしたように顔を上げることができず、ただ深く頭を下げた。
「当然のことです、ユウ様」
だが、その声はいつものように強くなかった。
ノアは、ユウの目をまともに見られなかった。
胸の奥に重いものが沈んでいく。
「そんなこと・・・当然なんかじゃないわ。本当に・・・ありがとう」
ユウの言葉は柔らかく、まっすぐで、その優しさがかえってノアの胸を刺した。
「・・・ゴロク様との約束を、私は・・・これからも守るつもりです」
掠れた声でようやく絞り出す。
ユウはその痛みに気づかないまま、静かに頷いた。
冬の光の下、ノアの影は、ただ重く沈んでいた。
「・・・冷えたわ。戻りましょう」
ユウは小さく肩を震わせ、離れの方へ歩き出す。
シュリもそのあとを追おうとした。
シュリがユウのあとを追おうとした瞬間、
袖をぐい、と掴まれた。
「・・・!」
振り返るとノアが立っていた。
その横顔には、冬の光では隠しきれない影が落ちている。
「ノア様・・・?」
小さな声で問いかけると、
ノアは前を向いたまま、視線だけを寄越した。
「・・・シュリ」
その声音に、胸の奥がかすかに震えた。
――ずっと見てきた。
どんな時もユウだけを追い、誰より先に駆けつける男。
“その想い”を、ノアは気づいていた。
だが彼は余計な言葉を一切挟まず、ただ一言だけ落とした。
「ユウ様を・・・支えてくれ」
祈りのようで、命令のようで、どれよりも強い願いだった。
シュリは息を呑み、まっすぐに頷いた。
「・・・必ず」
ノアはその答えに、ようやく肩の力を落とし、静かに手を離した。
「シュリ、どうしたの?」
先を歩いていたユウが足を止め、ふいに振り返った。
冬の薄い光に、金の髪が柔らかく揺れている。
「・・・今、参ります」
シュリはわずかに遅れた息を整え、静かに答えた。
その背後で、ノアは深く頭を下げる。
胸の奥に何かを押し込むような所作だった。
そして、雪を踏む音だけを残して――
ノアはひとり、本館の方へと歩き去っていった。
その小さくなっていく背中に、
“託された重さ”が確かに残っていた。
シュリはそっと息を吐く。
心の奥に熱いものがまだ揺れていた。
「・・・シュリ?」
ユウが不思議そうに眉を寄せる。
「大丈夫です。参りましょう」
そう答え、シュリはユウのあとを歩き出した。
いつものように、少し後ろを。
三つの影が白い庭を横切る。
遠くで、城門のほうから馬の嘶きが響いた。
出陣を告げる支度が、少しずつ城に満ち始めている。
だが、このときユウは、まだ知らなかった。
――妹が嫁いだセーヴ領で一つの運命が音を立てて崩れ始めることを。
次回ーー明日の9時20分
「嫁いだ姫に“月のもの”が訪れた」
それは、この国では――
夫婦になる準備が整ったという合図だった。
逃げたくても、秘密にもできない。
身体の変化は、政治として扱われる。
そしてその日の昼、
レイの前に現れたのは――夫・セージ。
「寝室に来てくれ」
会議で決まった未来。
けれど彼は、ひとりの男として問いかけた。
「俺と夫婦になってくれ」
幼い姫は、その手を取り、答えを選ぶ。




