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女を知らぬ男

◇ サカイ城・うまや


「ここの土地は冬でも寒くないな」


リチャードは柵にもたれ、手綱を巻いたまま退屈そうに佇んでいた。


彼の独り言に応えるように、馬が小さくヒンと鼻を鳴らす。


そのとき――

「すごい馬の数だわ」


はっきりとした女の声が響いた。


リチャードは怪訝な顔をして、ゆっくりと顔を上げる。


――女が、厩に?


柱の影に身を寄せると、視界に飛び込んできたのは、

厩には似つかわしくない女だった。


黄金色の髪に澄んだ青の瞳。

青いドレスの裾を軽く持ち上げ、白い手で無造作に馬の背を撫でている。


――随分と手慣れている。


普通の女は馬を怖がるものだが。


「ユウ様、ドレスが汚れます」


控えめな声。隣にいた青年が進言する。


――シュリ!


リチャードは思わず声を出しそうになり、慌てて口元を押さえた。


そうか。あのシュリが仕える姫が――ゼンシの姪の姫様か。


確かに、美しい。


「あの男が、こんなに名馬を集めるなんて」


ユウの声は刺すように鋭かった。


「・・・キヨ様は、今や国王に近い立場ですから」


シュリが言葉を繋ぐ。


「あの男が国王? 似合わないわよ」


ユウは馬のたてがみを撫でながら、つぶやく。


――気が強い。


リチャードは顎に手を当て、二人の後方で黙々と掃除をする馬丁に目をやる。


埃の立つ光の中、ユウのドレスの青がひときわ鮮やかに映えていた。


「ユウ様、そろそろ戻りましょう」


「そうね」


ユウは残念そうに馬から手を離した――その瞬間、

彼女の髪がシュリのボタンに絡まった。


「・・・あいた!」


髪を引かれ、ユウが顔をしかめる。


「すみません・・・」

シュリは慌てて絡まった髪の毛に手を伸ばした。


ところが思いのほか、細い金糸のような髪はボタンに深く巻きついていた。


ユウが小さく息を吸う。


「動かないでください」

シュリの指先が、慎重に髪を解こうとする。


「立ちっぱなしだと疲れるわ。あそこに座りたいの」

ユウが指さしたのは、牧草が積み上げられた場所だった。


「いけません! あんなところでは!」

シュリは慌てて制したが、ユウはもう歩き出していた。


「あいた!」

髪が引っ張られ、ユウは再び顔をしかめる。


「すみません」

シュリは急いで手を伸ばし、絡まった髪を押さえたまま、

ユウと共に牧草のほうへ足を運んだ。


無造作に腰を下ろそうとするユウに、

「お待ちください!」

シュリは慌ててハンカチを取り出し、草の上に敷いた。


「この上にどうぞ」


「シュリ、私が座れば髪の毛が引っ張られるの」

ユウは淡々とした声で言う。


「そ・・・そうですね」

シュリはしどろもどろになり、どうしていいかわからない様子だった。


「あなたも隣に座って」


その一言に、シュリは小さく息を呑んだ。


仕方なく、しかしどこか諦めたように、ユウの隣に腰を下ろす。


二人は自然と肩を寄せるように座っていた。


風が通り抜け、ユウの髪が牧草の匂いを含んで揺れる。


彼女が笑うと、シュリの顔にも微かな笑みが浮かんだ。


リチャードは柱の影から、その光景をじっと見つめていた。


本来なら、主と従者が隣に並ぶなどありえない。


けれど、この二人の間にはそんな常識を越えたものがあった。


――長い時間を共に過ごした者の、自然な距離。


それが、他の誰よりも強く見えた。


「取れませんね」

シュリは必死に髪を解こうと指先を動かした。


「そんなに難しいなら、髪を剣で切ったら?」

ユウが無造作に言う。


「だ、ダメです!」

シュリが顔を上げた。


「なぜ? 髪の毛なんて、どうせ伸びるわよ」

ユウが振り向く。


――距離が近い。


シュリは思わず息を詰めた。


ユウの瞳がまっすぐに自分を見つめている。


「その・・・美しい髪を切るなんて・・・言わないでください」

頬に血が上るのを、どうしても抑えられなかった。


「美しい」と口にした瞬間、声がわずかに掠れた。


ユウもまた、頬をうっすらと染めている。


柱の影で見ていたリチャードは、眉をひそめた。


――いや、嘘だろ。


姫と乳母子。


使用人なんて、姫にとっては牛や馬のような存在だと思っていた。


けれど、この二人にはそれだけじゃない、どこか危うい香りが漂っていた。


シュリは片手でユウの髪をすくい上げ、

もう片方の指先でボタンの縁をなぞった。


冷えた金具に触れるたび、指がかすかに震える。


やっとのことで、細い髪が一筋、ボタンから抜けた。


「もう少し・・・」


その距離、息が触れるほど。


ユウがふと顔を上げ、視線が合う。


一瞬、時間が止まった。


「・・・ありがとう」


ようやく解けた髪がさらりと肩に落ちる。


ユウは微笑み、シュリは安堵の息をつく。


リチャードは柱の影からその光景を見つめ、低く鼻を鳴らした。


――乳母子冥利ってやつか。


まるで、恋人みたいじゃないか。


◇ 翌朝 サカイ城・馬場 夜明け前


霜を踏む音が、馬場の隅にだけ響いていた。


東の空はまだ白んでおらず、息を吐くたびに白い靄が立つ。


シュリは一人、木剣を振っていた。


規則正しく、息を合わせ、何度も同じ型を繰り返す。


手の皮が剥けても、構えを崩さない。


「熱心だな」


不意に声がして、シュリは振り向いた。


柵にもたれ、腕を組んだまま立つ男。


リチャードだった。


「もうすぐ陽も昇るというのに、勤勉な乳母子だ」


「・・・おはようございます」


シュリは頭を下げる。


「まさか姫の護衛でも頼まれたのか?」


「頼まれずとも、ユウ様を守るのが私の務めです」


リチャードはゆっくりと歩み寄り、霜を踏む。


「昨日も守っていたな。厩で」


シュリの手が止まる。


「乳母子冥利ってやつだ。

髪を解いて、顔を赤くして――あれはなかなかの見物だった」


シュリの肩がビクッとした。


「・・・見ておられたのですか」


「目に入っただけだ。悪気はない」

リチャードは、薄く笑って首を傾げる。


「お前、女を知らないだろう」


「何を・・・!」



リチャードの声は低く、どこか楽しげだった。


「抱きたいと思うのは悪くない。綺麗な女だ。

 けど、シュリはそういう顔をしてなかった。・・・不思議なもんだな」


「私は・・・ユウ様をそういう目では見ておりません」


ーー嘘だった。


姫と乳母子の関係を超えてーー口づけは何回か交わした。


そして、最近は困ったことに、そこから先へと興味を湧くのを、

シュリは必死に押さえていた。


「それがまた不思議だって言ってる」


リチャードは柵に片手をかけ、朝焼けの気配を帯びた空を見上げた。


「女の髪に触れて顔を赤らめるくせに、欲を感じない・・・いや、違うな。押さえているのか?」

そう言ってつぶやく。


シュリは黙って、目を伏せた。


「どうだ?務めを終えたら、俺と一緒に楽しいところに行こう」

突然、リチャードがシュリの肩に手をまわす。


「楽しい・・・ところとは?」

シュリの目線は、リチャードの腕を見つめていた。


「花街だ。ここの城下には、たくさんあるぞ。きれいな女がたくさんいる」


「・・・結構です」

シュリは目を伏せたままだ。


「お前は妙に真面目だ」


背に淡い光が差し、馬場の霜がきらりと光った。


「リチャード様」

「ん?」

「ご忠告、痛み入ります」


「忠告じゃない。ただの感想だ」

振り返った男の笑みは、霧に溶けて見えなくなった。


シュリは木剣を握り直し、

新しい朝の気配の中で、もう一度構えを取った。


「・・・女を知らない、か」

自嘲のように呟く。


ーー確かに、自分は何も知らない。


剣の振り方と、ユウの笑い方しか知らない。


思い返せば、あの方の傍にいた年月は、

戦よりも長く、どんな訓練よりも厳しかった。


泣くときも笑うときも、目の前にいるのは常に一人。


守りたい、と思ったのがいつからなのか。


忠義なのか、想いなのか。


その境がもう、わからない。


朝日が昇る。

白い光が馬場を満たし、霜がきらきらと溶けていく。


シュリは木剣を構え直した。


目を閉じ、いつもの型を繰り返す。


心を無にすれば、あの人の声も、笑いも、少しだけ遠のく。


それでも、離れられない。


――あの方が、そばにいる限り。



次回ーー明日の20時20分


サカイ城の会議室に置かれた一枚の文。

――「セージ・ロス、妻レイとの縁、断つべし」


姉を想う心を利用し、

「ユウが体調を崩した」と偽りの文が用意される。


それが、夫婦を引き裂く合図だった。


「嘘の手紙と一夜の囁き」

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