正しいことは、いつも冷たい
「レイと連絡が取れる日は、いつなの?」
ユウはお茶を淹れに部屋へ入ってきたイーライに尋ねた。
「まだでございます」
イーライは静かに答える。
「戦は終わったはずよ。なぜ連絡が取れないの?」
ユウが片眉を上げて問い返す。
イーライは一瞬、言葉を選ぶように間を置き、
盆をテーブルに置いてから、淡々と答えた。
「セーヴ領は、かつてこちらに剣を向けた領です。
戦いが終わったからといって、すぐに往来が復活するわけではございません」
「私はレイと文通をしたいだけなの」
ユウの顔は不満げだった。
「ユウ様は、いつも妹君のことばかりを案じておられますね」
イーライはそう言いながら、ワゴンの下から小さな銀の箱を取り出した。
「もちろんよ。セーヴ領と交流を回復するには・・・あの男が決めるの?」
「はい。ユウ様が直接、キヨ様にお話ししてはいかがでしょうか」
「絶対に嫌!」
ユウが言い放つと、傍らのシュリが思わずふっと笑った。
イーライも、顎をあげて言い放つユウの横顔を見つめ、
ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
どんな顔をしていても――この姫は、愛おしい。
シュリも、イーライも、心のどこかでそう思っていた。
「ユウ様がお話しすれば、状況は変わるかもしれません」
イーライはそう言いながら、銀の箱の蓋を開けた。
ふわりと、甘酸っぱい香りが部屋に広がる。
「杏のタルトでございます。城下の菓子師に、わざわざ焼かせました」
「・・・杏?」
ユウがわずかに目を見開く。
そして、すぐに頬を緩めた。
杏を煮たものはユウの好物でもあった。
イーライは一度、盆の上の茶器を整え、その傍らに小さな皿をそっと置いた。
「杏のタルトは初めてだわ」
ユウが小さく呟くと、向かいにいたシュリが静かに口を開いた。
「杏といえば、煮たものしか知りません」
「サカイ領には、優秀な菓子師がおります」
イーライは恭しく頭を下げる。
銀の皿に置かれたタルトから、
甘酸っぱい香りがふわりと立ちのぼる。
ユウはフォークを手に取り、そっと一口だけ口に運んだ。
「・・・おいしいわ」
その小さな呟きに、イーライの目がわずかに和らいだ。
「こんなに美味しいものは、皆と分け合うべきだわ」
ユウが微笑みながらつぶやく。
「シュリ、イーライ。一緒に食べましょう」
「いえ・・・私は」
イーライが戸惑ったようにポットを置き、視線を伏せた。
「良いから」
ユウはやわらかく言い、椅子を指さす代わりに、目で座るよう促した。
その眼差しに逆らうことはできない。
イーライはわずかに息を整え、静かに腰を下ろす。
「・・・恐れながら、ユウ様と同じ席につくなど」
「ここでは、そんなこと気にしなくていいの」
ユウはフォークを取り、タルトを少し切り分けた。
「ねえ、香りがすごく良いわ。ほら、食べてみて」
甘酸っぱい杏の香りが、三人の間をやわらかく満たしていく。
「レイにも食べさせてあげたいわ」
そのひとことに、シュリがそっと頷く。
タルトをすべて食べ終えたのを見届けて、イーライは静かに口を開いた。
「このタルトは、キヨ様が作らせたものです」
カップを持つユウの手が、ぴたりと止まる。
「・・・あの男が?」
「はい。引っ越されたばかりのユウ様のお気持ちを慰めようと、
特別に菓子師へ命じられました」
「・・・そう」
ユウの顔に、かすかな陰が落ちた。
「あの男が用意したものなのね」
その声には、冷たい怒りが滲む。
シュリは静かにその様子を見つめていた。
以前、イーライにユウ様の好物を伝えたのは――自分だ。
キヨは巧みに、しかし確実にユウ様の心を掴もうとしている。
それを思うと、胸の奥がきしんだ。
甘い杏の香りだけが、いつまでも部屋に残っていた。
◇ その夜――サカイ城・キヨの執務室。
灯は三つ。
机の上に広げられた地図の端で、蝋がゆっくりと垂れていた。
キヨはペンを置き、書き上げた文を低く読み上げる。
「セージ・ロス、所領没収。セーヴの地より退け」
沈黙の中で、イーライが顔を上げた。
彼の声は落ち着いていたが、その奥にかすかな緊張が滲む。
「正しきご判断にございます。
モザ家の血を温存すれば、いずれ再び――争いの芽となりましょう」
言葉は、迷いなく出た。
だが、胸の奥にひとつ、影があった。
――そんなことをしたら、ユウ様はどう思うのだろう。
ほんの数時間前、彼女と茶を飲んだばかりだ。
『レイに会いたい』と、寂しげな瞳で笑っていた顔が、まだ脳裏に残っている。
戦の理に従えば、この裁きは正しい。
だが、あのユウ様が――姉として妹の境遇を思わずにいられるはずがない。
イーライは、胸の奥でその思いを噛み殺した。
隣にいたエルが、ゆっくりと顔を上げる。
静かな声が、張りつめた空気を震わせた。
「兄者・・・それほど急がれることでもないでしょう。
セージ殿はまだ若く、義にも篤い。敵に回すには、惜しい男です」
キヨは短く笑った。
「それではダメだ。セージには、モザ家の姪――レイがいる。
モザ家の名を、再び掲げる要素がある」
エルの眉がわずかに動いた。
「・・・離縁を、命じるおつもりか」
「そうじゃ」
キヨの声は冷静で、ひと欠片の迷いもなかった。
イーライがすぐに言葉を添える。
「レイ様をこちらにお迎えすれば、モザ家の血は再びトミ家の中に戻ります。
敵の芽を断ち、乱を防ぐことになります」
エルは沈黙した。
その沈黙を、キヨは意図的に無視するように、静かに言葉を重ねた。
「情けで国は治まらぬ。セージが騎士として生きたいなら、騎士の理を受け入れねばならん。
女を守れぬことも、また“戦”なのだ」
イーライは頷きつつも、心の内で沈んだ。
ーー秩序・・・そのために。
彼は知っていた。
この決断が、やがてユウの心に深い棘を残すことを。
けれど、今は逆らえない。
キヨの考えを理解し、その意を形にする――それが己の役目だった。
静寂の中、蝋がひとしずく、地図の上に落ちる。
淡い光がその白を照らし、誰も動かなかった。
ーー正しいことは、いつも冷たい。
イーライはそう思いながら、顔には出さなかった。
エルが低く問うた。
「兄者・・・ユウ様に、どう申し上げますか」
キヨは顔を上げずに答えた。
「言うな」
蝋がまたひとしずく落ち、地図の上で静かに固まった。
次回ーー明日の20時20分
木剣を振るうシュリに、リチャードは笑って告げる。
「お前、欲を知らない顔じゃない。――押さえ込んでるだけだろ」
忠義か、想いか。
守る者と守られる者の境界が、静かに、確実に揺らぎ始める。
その関係を、もう“外の目”が見ていた。
「女を知らない男」




