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十二の妃に、彼は言った――早く大人になってくれ

◇ セーヴ城 レイの部屋


窓を開けると、潮の香りとともに波の音が聞こえた。


「セージ様がお帰りです」

乳母のサキが、緊張した面持ちで部屋に入ってくる。


レイは黙って椅子から立ち上がった。


戦が終わり、夫セージは戦後の処理を終えて、初めてこの城へ戻る。


結婚して一年と少し――。


共に過ごしたのは、ほんの数日だけだった。


けれど、レイは名目上、彼の妃であり、この城の正妃になる。


とはいえ、まだ幼いレイに城の采配を任せることはできない。


その立場は、あくまでも名目上のものだった。


玄関のホールへ向かうレイの足取りはゆっくりだった。


戦の最中、手紙のやり取りは何度かした。


けれど、昨年、出陣した夫セージの顔を、レイはもうはっきりと思い出せない。


扉が開き、廊下の向こうから人の気配が流れ込む。


その場にいた多くの家臣と侍女が、一斉に頭を下げた。


レイも慌てて、その動きに合わせて頭を下げる。


足音が近づく。


鎧の擦れる音がして、レイの胸の奥で何かが強く跳ねた。


「レイ」


ずいぶんと高い位置から声が響いた。


レイはおそるおそる顔を上げる。


見上げた先に立っていたのは、逞しい体つきの男――セージだった。


背が高く、日焼けした頬には細い白い傷跡が走っている。


レイは思わず、ぽかんとその男を見つめた。


――誰かしら?


わかってもいいはずだった。

自分の名を呼ぶ男性など、この人しかいないのに。


「レイ」

セージがもう一度、その名を口にする。


「セージ様・・・」

ようやく絞り出した声とともに、レイの目が丸くなる。


たしかに、彼だった。


けれど――いかにも老けて見えた。


まだ二十歳のはずなのに。


頬の傷跡、目尻や口もとの小さな皺。


そのすべてが、戦の激しさを物語っていた。


セージは黙ってレイの手を取った。


握った手の小ささに驚き、しばらくそのままレイの顔を見つめた。


一年ぶりに再会した幼い妻は、思っていたよりも大人びて見えた。


会わない間に少し背が伸び、艶やかな黒髪が陽の光を受けてきらめいている。


真っ黒な瞳――それは、どこか人の心を惹きつける色だった。


「レイ、元気だったか」


その声は、確かに覚えのある声だった。


「・・・はい」

レイはそう答えて、そっと目を伏せる。


なぜか、セージの顔をまっすぐ見つめることができなかった。


その気持ちが何なのか――まだ、レイにはわからなかった。


夜になり、レイの部屋の扉がノックされた。


顔を上げたレイの目の前で、扉がゆっくりと開く。


そこに立っていたのは――セージだった。


「セージ様・・・」


驚くレイをよそに、乳母のサキは慌ててお茶の支度を始める。


茶器の触れ合う音が、やけに落ち着かなく響いた。


「レイ、少し良いか」


「はい。もちろん」


レイは静かに頷き、椅子を勧める。


「争いが無事に終わって・・・何よりです」

そう言って、そっと頭を下げた。


セージは一拍置いてから口を開く。


「結果的には・・・引き分けになった」

わずかに疲れをにじませた声だった。


「レイと、姉上様方を引き離して・・・すまないと思っている」


その言葉に、レイは小さく首を横に振った。


「ご無事のお帰り・・・本当に嬉しいです」


形式通りの言葉をつぶやいた後、急に恥ずかしくなって、

それ以上、言葉が出てこなかった。


レイの基準は、いつだって姉のユウだった。


――姉上なら、きっとこう答えるだろう。


そう思いながら口にした言葉は、果たして自分に見合うものだったのだろうか。


これまでは、母や姉たちがいつもそばにいた。


けれど今はもう、自分の判断で言葉を選ばなければならない。


胸の奥が、静かに締めつけられるようだった。


灯の揺れる部屋に、波の音だけがかすかに響いていた。


レイは、セージが笑っているのではないかと思うと、顔を上げられなくなった。


長く黒いまつ毛が頬に影を落とし、その美しさがかえって沈黙を際立たせていた。


セージは、じっとレイを見つめている。


「レイ」

その声は、少し掠れていた。


顔を上げてほしくて、彼はそう呼んだのだ。


「何でしょうか」

レイはゆっくりと顔を上げた。


「キヨ様の家臣に、ノアという男はいるか」


――本当は、そんな話をしたいわけではない。


けれど、少しでもレイと話がしたかった。


「ノアですか」

レイの黒い瞳がわずかに動いた。


「・・・はい。おります」


――母上を裏切り、キヨのもとに就いた重臣。


その裏切りが、母を死に追いやった要因の一つでもある。


「そのノアという男に、俺は助けられた」

セージは静かに話す。


「彼の剣は見事だった。俺を殺そうと思えば殺せた。だが――殺さなかった」


「・・・どうして?」


「レイの姉上に頼まれたと聞いた。『俺を殺すな』と」


「姉上が・・・」


その“姉”がウイではなくユウであることを、レイはすぐに理解した。


「ああ。俺は領主だ。殺せば、きっと彼は出世しただろう」

セージは少し笑ってから、言葉を継ぐ。


「・・・レイの姉上に、会ってみたくなった」


「・・・私の姉上は、とても強くて美しいです」


「そうなのか。レイに似ているのだろうな」

セージは出されたカップを一口飲んだ。


「似てないです。私は・・・父に似ているようですが、姉は母にそっくりです」

レイは淡々と答える。


「・・・となると、モザ家の血筋か。金髪に青い瞳、か」


セージの言葉に、レイは黙って頷いた。


――幼い頃から理解している。


どの人も皆、姉に見惚れるのだということを。


「セージ様も・・・姉上にお会いしたら、夢中になるはずです」

レイは伏し目がちに答えた。


セージはカップをテーブルに静かに置いた。


「あいにく、俺はモザ家の顔立ちは見慣れている」

ニヤリと笑い、空になったカップをテーブルの端へと押しやる。


「それよりも・・・」

じっとレイの顔を見つめた。


「黒髪で、切れ長の目の娘の方に興味がある」


そう言われて、レイは息を詰めた。


「それは・・・」


何と返していいかわからず、視線をさまよわせる。


不意に、セージがレイの手を取った。


動けないレイの瞳を、彼はじっと見つめる。


背後で、乳母のサキが動揺したように立ち尽くした。


「レイ・・・何歳になった」

その声は、また掠れていた。


「・・・十二になりました」


その返事に、セージは苦笑し、ゆっくりと手を離した。


「そうか、レイはまだ十二か・・・」

そう呟くと、そっと手をレイの頭に置いた。


「早く、大人になってくれ」


それだけ言って、席を立つ。


扉が閉まったあとも、レイはしばらく動けなかった。


波の音が遠くで鳴っていた。


その音が、胸の奥で静かに響いていた。


「サキ」

レイは、背後に控えていた乳母に声をかけた。


「なんでしょうか」

カップを片づけるサキの手が、わずかに震えていた。


「大人になる・・・って、いつ?」


その問いに、サキは小さく息を呑み、少し間を置いて答える。


「年齢でいえば十五歳。

それか――月のものが来た時、女は大人になると申します」


「そう・・・なのね」

レイは淡々と答えた。


けれど、胸の奥では、何かが静かに揺れていた。


どれも自分には、まだ当てはまらない。

彼にふさわしい女性になるには、時が必要だとわかっていた。


そして同時に――

今の自分は、彼の望みに応えられる身体ではないことも。


レイは、ゆっくりと窓の外を見上げた。


「・・・早く、大人になりたいわ」


そのつぶやきを聞いたのは、少し欠けた月だけだった。


次回ーー本日の20時20分


その夜、キヨは冷たくペンを走らせる。


「セーヴ領主セージ、所領没収。レイ――召し上げ」


妹を思い続けるユウの願いと、

その裏で動き始めた冷酷な決断。


――二つの想いは、まもなく正面からぶつかる。


姉妹の運命が、大きく揺らぎ始めていた。


「正しいことはいつも冷たい」


今朝も読んでいただきありがとうございます。


仕事も原稿も予定も詰め込みすぎて、案の定バタバタしています。


そんな“堪え性のなさ”をテーマに、エッセイを更新しました。


「書くべき原稿から逃げて、このエッセイを書いた」


https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/


気軽に読める内容なので、休憩のお供にどうぞ。



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