朝焼けの馬場で、君を守ると誓った
翌朝の早朝。
シュリは木剣を手に、まだ薄闇の残る馬場へと向かった。
夜明け前のサカイ城には、同じように早朝稽古に励む若い騎士たちの姿がある。
剣の音が、冷たい空気を裂くように響いていた。
イーライも、そして戦から戻ったリオウもいた。
「おはようございます」
静かに頭を下げると、数人の騎士が一瞬だけ手を止め、軽く会釈を返した。
彼らの視線の奥に、戸惑いとわずかな敬意が混じっているのを、シュリは感じていた。
――騎士でもなく、ただの乳母子にすぎぬ自分が、剣を握ってここに立っている。
それは、サカイ城において異様な光景だった。
――異質なのは、わかっている。
使用人でありながら剣を振るう。
しかも、この年齢で、年頃の姫の乳母子だ。
それでも――彼には、稽古を怠れない理由があった。
その理由を、誰かに語ったことはない。
ただ、剣を握るたびに――あの日の約束が、胸の奥で疼くのだ。
それは――もう十一年前のことになる。
ユウの父、グユウが死の間際、幼いシュリに言葉を託した。
「ユウを・・・守ってくれ」
まだ四歳の自分に、娘を託すしかなかったのだ。
その時の主の気持ちを思うと、今でも胸が痛む。
そして昨年――
夫と同じように、自ら死へ向かったユウの母からも、同じ言葉を託された。
「ユウを守ってーー」
その声は、涙に濡れながらも不思議なほど穏やかで、
あの日のグユウの面影と重なっていた。
守る。
命に代えてでも、守る――。
その気持ちは、嘘ではなかった。
けれど、シュリはユウに対して、主以上の想いを抱いていた。
それは、恋だった。
託された二人の願いに報いるためにも、この想いを封じねばならない。
そうわかっていても、日々ユウと共に過ごすうち、惹かれる気持ちは止められなかった。
これ以上、あの人に悲しい想いをさせたくない。
――この想いを捨てられないのなら。
せめて、ユウ様を守れるほど強い自分でありたい。
木剣を握る手に力がこもる。
東の空が、うっすらと朱に染まりはじめていた。
その音は、冷たい朝の空気を裂き、誰よりも強く、激しく響いていた。
「随分と気合が入っているなぁ」
背後から、のんびりとした声がした。
木剣を振るう手を止めると、同じ声が続く。
「たいしたものだ」
その気の抜けた口ぶりに、シュリは怪訝な顔をする。
見知らぬ青年が、腕を組んでこちらを見ている。
口の端をゆるく吊り上げ、どこか挑むような笑みを浮かべていた。
年の頃は十七くらいだろうか。
赤色の髪は朝の光を受け、赤銅のように輝いている。
その瞳は、青と灰が溶け合うような、不思議な色をしていた。
朝の光を受けて、一瞬だけ揺らめく。
シュリは、わずかに息を呑み、
そして、小さく一礼すると――再び木剣を振った。
空気を切る音が、先ほどよりも鋭く響く。
青年は腕を組んだまま、その様子を黙って見つめていた。
「随分、良い腕だ」
青年はシュリの剣筋を見て、感心したように頷いた。
――素振りだけで何がわかる。
シュリは答えず、黙々と木剣を振り続ける。
「稽古の相手をさせてくれ」
青年はそう言って、近くに立てかけてあった木剣を手に取り、にやりと笑った。
――どんな男か知らない。だが相手は騎士、自分は乳母子。
立場は明らかに向こうが上だ。
シュリは短く息を吸い込み、無言で頷いた。
そして、木剣を構える。
木剣と木剣がぶつかり合い、乾いた音が朝の空気を裂いた。
互いに一歩も引かず、視線で気配を探る。
数合打ち合ううちに、青年の口元に愉快そうな笑みが浮かび、
シュリの額には、薄い汗がにじんでいた。
「お前・・・うまいな」
青年は息を弾ませながら、木剣を構え直した。
シュリは答えず、無言で男の懐にスッと踏み込む。
「早い!」
愉快そうな声とともに、青年は身をひねってその一撃をかわした。
シュリもまた、目を見開く。
飄々としたこの青年は、見た目よりもーー剣の腕は確かなものだった。
「名前は?」
「・・・シュリ・メドウ」
短く名を告げ、シュリは矢のような速さで再び木剣を突き出す。
その鋭い剣筋に見惚れた騎士たちが、次々と手を止めた。
気づけば、二人の周りには人垣ができていた。
「メドウ? 聞いたことがない名だな」
青年は笑みを浮かべながら、正面からシュリの剣を受け止めた。
木剣と木剣が打ち鳴らす音が、朝の馬場に高く響いた。
「こちらにおられたのですか」
馬場にサムの声が響いた。
シュリと青年は、同時に動きを止める。
「サム様、おはようございます」
シュリは流れる汗をそのまま、深々と頭を下げた。
「リチャード殿、もう稽古に来られたのか」
サムが男に声をかける。
「あぁ。シュリはうまい」
リチャードと呼ばれた青年は、袖で汗を拭いながら笑った。
サムはどこか誇らしげに頷き、シュリの肩に手を置いた。
「そうだ。シュリは見事な腕前だ」
怪訝そうな顔をするシュリに、サムが説明する。
「シュリ、この方は、ナノ領の次男――リチャード・レッド殿だ」
「ナノ領・・・?」
シュリは思わず声を上げた。
つい最近まで、キヨ様率いるトミ軍に刃を向けていた領。
ーー形勢を見て、臣従したのか。
「知らぬとはいえ、失礼をしました」
シュリは静かに頭を下げる。
「リチャードと呼んでくれ」
青年は屈託のない笑みを浮かべた。
「領主の次男だが――まぁ、今は人質だ」
飄々とした口調に、サムが小さく咳払いをする。
「・・・シュリ、励め」
そう言い残して、サムは馬場の見回りへと戻っていった。
木剣を下ろしたリチャードが、無邪気に話しかけてくる。
「四日前にこの城へ来たんだ。山育ちの田舎者には、眩いばかりの城だよ」
「・・・そうですか」
「シュリはいつから?」
「・・・昨日です」
「それで、もう早朝稽古とは。すごいな」
リチャードは笑顔で言うが、シュリは無言のままだった。
「この城には、ゼンシ様の姪君――姫がおられるとか?」
不意の問いに、シュリの手がわずかに止まる。
ーーユウ様のことだ。
すぐに察したが、あえて沈黙を守った。
「一度、お逢いしてみたいものだ。俺の兄がな、昨年ノルド城でその方と面談をしたらしい」
――ノルド城の時か。
シュリはかすかに頷いた。
当時、ユウの義父ゴロクが、婿候補として各地の跡取りと面談を行っていたのだ。
「その姫と一度しか顔を合わせていないのに、兄も父もすっかりのぼせあがってな」
「・・・そうですか」
シュリの声は、少し硬くなった。
「一度でいいから、俺も顔を見たいものだ。とても美しいと聞いた。
シュリは逢ったことがあるのか?」
「・・・はい」
その言葉にリチャードは目を輝かせた。
「そうか! やはりキヨ様に仕えている者なら、逢う機会があるのか!
どうだ? 本当に美しいのか?」
「ええ・・・」
シュリは言葉を濁した。
「ですが、奥におられますので、なかなかお目にかかるのは難しいかと」
迷いながらも言葉を口にした。
「それなら、なぜシュリは顔を見ることができるんだ?」
リチャードの問いに、シュリは一瞬、目を伏せた。
「・・・私は、ユウ様の乳母子なのです」
「乳母子?」
リチャードの目が大きく見開かれ、声が裏返った。
「姫に、男の乳母子?」
「・・・はい」
シュリは俯きながら答えた。
リチャードはしばらく呆気にとられていたが、やがて声を上げて笑った。
「なるほど、乳母子か。面白いな!」
驚きよりも、興味の方が勝っているようだった。
「姫のそばで育った男・・・それで強くなるとは・・・面白い!」
「・・・お褒めにあずかり、恐れ入ります」
シュリは淡々と答えたが、どこかに警戒の色を残していた。
それは、この青年の発言が世間一般からはかけ離れたものだからだ。
リチャードはその反応すら愉快そうに眺め、木剣を肩に担ぐ。
「また明日も手合わせしてくれよ、シュリ・メドウ」
朝の光が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
そのときはまだ、互いが数十年後に同じ誓いを掲げることなど、誰も知らなかった。
◇
木剣の音が、遠くから微かに響いていた。
朝靄の残る窓辺で、ユウはそっと窓を開け、外の光を見つめる。
「窓を開けると、剣の音が聞こえるのですね」
背後からヨシノの声がした。
ユウは小さく頷く。
その音を聞くたび、胸の奥が不思議と落ち着く。
誰が剣を振っているのか、名も知らぬまま――
けれど、その中にひとつだけ、心に触れる響きがある気がした。
戦は終わった。
ユウは、ゆっくりと目を伏せる。
「・・・レイは、どうしているのかしら」
微かな呟きは、朝の風に溶けて消えた。
次回ーー明日の9時20分
戦が終わり、レイのもとへ一年ぶりに夫セージが帰還した。
ぎこちない再会の中で、セージは静かに言う。
「黒髪の娘の方に・・・興味がある」
その言葉に、まだ十二歳のレイの胸が初めて強く揺れた。
――早く大人になりたい。
「十二の妃に彼は言ったーー早く大人になってくれ」




