“牢のような部屋”で泣いた夜
サムが去り、分厚い扉が再び閉まった。
重い音が石壁に反響し、やがて――静寂が落ちた。
まるで、世界から音が消えたようだった。
「姉上・・・」
ウイが控えめに声をかける。
だが、その声に応じて振り返ったユウの顔は、まるで血の気がなかった。
唇が固く閉ざされ、指先がわずかに震えている。
――あの部屋も、あの視線も。
キヨの影は、まだこの館の空気の中に残っていた。
ウイは何か言おうと口を開きかけたが、
強張る姉の表情を見て、結局、言葉を飲み込んだ。
――話したいことは、たくさんあった。
この屋敷がどれほど広くて豪華か。
自分の部屋の隣の空き部屋には、いずれ誰が入るのか。
そして、なぜこの部屋だけが、こんなにも広く、重い空気を纏っているのか。
けれど、蒼白な姉の顔を見た瞬間、
そのどれもが、どうでもいいことのように思えた。
――今、姉上が求めているのは、自分ではない。
ウイはそっと、隣に控えるシュリを見つめた。
姉の傍にいるべきなのは、きっと自分ではなく、彼なのだ。
「モナカ、荷物の片付けをするわよ」
そう言って、ウイは乳母を引き連れ部屋の外へ歩き出す。
厚い扉が再び閉じると、差していた光が消え、
部屋は音も届かぬ静寂に沈んだ。
部屋に残るのは、ユウ、シュリ、ヨシノだけ。
ユウの背が小刻みに震えていた。
「母さん、少し寝室にいてくれる?」
シュリの言葉に、ヨシノは察したように頷き、寝室へと向かう。
寝室の扉を閉めると、ヨシノは息を呑んだ。
――そこは、本当に音がなかった。
窓は小さく、壁は分厚い。
まるで牢のような閉塞感。
部屋の奥にある浴室に目を向けた。
高価な浴室が部屋にあるのは妃の部屋とーーこの部屋ぐらいだろう。
ーー全てはユウ様を・・・。
そこから先は想像をしたくもなかった。
ヨシノは落ち着かぬまま、鏡台の前に腰を下ろした。
隣の部屋では、ユウとシュリが何かを話しているはずだ。
気になって、扉をほんの少しだけ開けた。
部屋の中央で、ユウとシュリが向かい合っていた。
ユウの声が、鋭く、震えている。
「どの家具も・・・私の身長に合わせてあるわ。・・・気持ちが悪い」
「ユウ様、落ち着いてください。今は住む城が変わっただけです。状況はロク城の時と変わりません」
「・・・そう、よね」
ユウの声は掠れていた。
シュリはそっと背に手を添える。
「落ち着かれたら、ここも住みやすくなります。バルコニーがあります。窓を開けましょうか?」
ユウは黙って首を振った。
それは、姫というより年相応の少女のようだった。
「・・・帰りたい」
ユウのかすかな声に、シュリの指が止まる。
ユウの背中が震えていた。
――泣いている。
「ユウ様・・・」
そっと声をかけた瞬間、ユウがシュリに飛びついた。
「でも・・・帰る場所なんて、もうどこにもないのよ」
震える声が、彼の胸元に沈む。
「レークも、シュドリーも、ノルド城も・・・あの男の手で壊された。
父上も母上も、もういない。私には、帰る城なんて・・・どこにもないの」
シュリの胸の奥が熱くなる。
ユウの涙が、服の布地を静かに濡らしていく。
まるで、世界のどこにも居場所がない少女が、
たった一つの温もりを掴もうとしているようだった。
シュリは息を殺し、背を優しく撫でた。
「どうして?どうして、こんな場所にいるの?」
ユウはシュリの胸に顔を埋めて叫ぶ。
「父上と・・・母上と・・・ウイとレイと穏やかに過ごしたかっただけなのに」
ーー望んでいたのは、豊かさでも名誉でもない。
ただ、笑い声の絶えない家。
その夢を、あの男が壊した。
そして今、その男が自分を妾にしようとしている。
「・・・大丈夫です。私が、います」
シュリはユウの身体を強く抱きしめた。
寝室の扉の隙間からそれを見たヨシノは、目を伏せて、静かに距離を置いた。
二人の姿は、もはや主と従ではなかった。
若い男女のように、どこか危うく、美しかった。
共に過ごすうちに、二人は大人になった。
だがその絆が深まるほど、崩れてはいけない境界が、少しずつ揺らいでいく。
「・・・どうしたらいいの」
ヨシノは鏡の前で、小さく呟いた。
その時――扉の外から「カチッ」という金属音が響いた。
弾かれたように、シュリとユウが離れる。
ヨシノも寝室を飛び出した。
現れたのはイーライだった。
静かに一礼し、涙の跡が残るユウの顔を見て、息を詰める。
ーー泣いた顔も美しい。
イーライは心中でそう呟きながら、その揺れる思いを決して顔には出さなかった。
伝えるべき任務がある。
「・・・後ほど、キヨ様がこちらの部屋にお越しになります」
その言葉に、部屋の空気が――さらに重く沈んだ。
ユウは唇を噛み、俯いたまま拳を握りしめる。
震えを押さえようとするように、細い肩がわずかに動く。
シュリはその背中を見つめ、静かに息を吸った。
――この方を、一人にはしない。
そう誓うように、目を細めた。
扉の外では、風がうねり、鉄の格子がかすかに鳴った。
サカイ城の夜が、静かに――しかし確実に、幕を下ろしていく。
次回ーー明日の20時20分
イーライが静かに茶を淹れる中、扉が“カチッ”と鳴った。
現れたキヨは無邪気な笑みのまま、ユウを執拗に見つめる。
「ユウ様は・・・特別じゃ」
その言葉に、ユウの指先が震える。
「奪わぬ。理解してもらえばよい」
――優しさをまとった“支配”が、静かに始まろうとしていた。




