誰にも言えぬ恋と、誰にも知られぬ約束
◇ 西の棟 バルコニー
ミミの部屋を出たあと、ユウは静かに西の棟へ向かった。
真ん中の部屋には、妹のウイがいる。
ドアノブに手をかけたまま、ユウは動けなかった。
――きっと心配している。部屋に戻れば、いろいろ聞かれる。
乱れた気持ちでウイと話すわけにはいかない。
心の整理をする時間が必要だった。
静かに手を離し、そのまま突き当たりのバルコニーまで歩いた。
心配そうに見つめるヨシノに、シュリは小さく頷く。
そして、ユウの背中を追った。
湖の光が、春の風にきらめいている。
ユウは手すりを軽く叩いた。
それは、「隣に来い」という無言の合図だった。
シュリは少し距離を空けて隣に立つ。
ふたりの影が、長く床に伸びた。
「子供だった頃、あの向こう岸へ行きたいと思っていたの」
湖を見つめるユウの声は穏やかで、どこか遠い。
「知らない土地を、この目で見てみたい――そう思っていたわ」
ユウは手すりをぎゅっと握りしめた。
「今は、そう思わないのですか?」
シュリが控えめに問う。
ユウは小さく首を振った。
「思わないの。父が死んでから・・・ずっと、あちこちを移動してきた」
「・・・そうですね」
「一年前はノルド城にいたわ。母上とゴロク様が夫婦になったことを、どうしても認められなかった」
「覚えています」
シュリは小さく頷いた。
あの頃のユウは、痛みと怒りに満ちていた。
「同じ場所で、同じ人といられるって・・・幸せなことね」
ユウの声が、風の中に溶けた。
「父上も、母上も、ゴロク様も・・・みんな死んでしまった。レイも嫁に行ってしまった」
声が震えた。
「・・・知らない誰かに“妃にしたい”なんて言われても、何も感じないの。
私は、同じ人と、同じ時間を過ごしていたい」
風が吹き抜け、ユウの髪が揺れた。
その横顔は強く、それでいて脆い。
「大人になるって・・・そういうことなのね」
「ユウ様・・・」
シュリはユウの横顔を見つめた。
「たとえ、どんな場所に行かれても、私はお側におります」
ユウは小さく息を呑んで、シュリを見つめた。
「ユウ様が望まれる限り、私はずっとそばにいます」
シュリは、ユウを見つめながら話す。
――それは、乳母子だからこそ言える言葉。
けれど今、その響きには、任務以上の熱があった。
ユウは唇を開いたが、言葉は風にさらわれた。
シュリは恥ずかしそうに目を伏せた。
「だから・・・どこに行かれても、一人ではありません。私がおりますから」
その言葉は――まるで、プロポーズのようだった。
「・・・ありがとう」
ユウは震える声でつぶやいた。
ーーそれしか言えない。
今、自分が想ったことを言ってはいけない。
好いた人と・・・結ばれたい、なんて。
けれど、どんな相手に嫁ごうとも、キヨの妾になるよりはましだと思った。
そして――知らない土地へ行くとしても。
シュリがそばにいるなら、耐えられる気がした。
◇ ジュンの陣の北方 林の中
「あの林の向こうに、ジュン様の旗が見える」
オリバーが声を潜めて報告した。
「・・・よいか、深入りはしない。今回は偵察だ」
ノアが小さく答える。
二人は馬を降り、草むらに身を潜めた。
槍と弓を率いる二人には、陣を偵察し戦の作戦を立てる任が与えられていた。
春とはいえ、戦場の空気には冷たさが残っている。
「守備が堅い。あんなに高い場所では弓を引くのは難しい」
オリバーが息を詰めるように言う。
「近距離の攻撃も難しい」
ノアは槍を握り直した。
遠くの丘の上、金と黒の旗が風に翻っている。
それが、ジュンの陣の印――まるで、動かぬ山のようだった。
「これでは、近づくことすら難しい」
オリバーが小さく呟く。
ノアは、あたりの静けさがあまりにも深いことに気づいていた。
風の音さえ遠い。鳥の声もない。
――嫌な静けさだ。
そのとき。
草むらの奥で、ほんの一瞬、草の葉が逆立った。
「・・・敵兵か!」
ノアが叫んだ瞬間、草陰から体格の良い男が飛び出した。
剣が陽を弾き、光の線を描く。
ノアは咄嗟に槍を抜いた。
金属がぶつかり、火花が散る。
鍔迫り合う音が、沈んだ森に響いた。
「ノア様! 少しお下がりください!」
オリバーの声が響く。
ノアが振り返るより早く、敵の剣が肩をかすめた。
鋭い痛み。血が滲む。
それでもノアは下がらず、反射的に槍を振り抜いた。
その瞬間、視界の端に――旗印が見えた。
白地に青の紋。
「・・・セーヴ領?」
目の前の敵は、若い兵士だった。
剣を構え、鋭い眼光でノアを睨んでいる。
「お前の名は!」
ノアが問いかける。
「セージ・ロス」
低く落ち着いた声だった。
その名を聞いた瞬間、ノアの動きが止まる。
槍を構えたまま、息を詰める。
――レイ様の、夫。
「オリバー、撃つな!」
「え? あ・・・はい!」
慌ててオリバーが弓を下ろす。
セージは剣を構えたまま、ゆっくりと歩み寄った。
敵兵同士、呼吸が重なるほどの距離。
「・・・なぜ、止まった」
セージの声が、静寂に沈む。
「私は、お前を攻撃しない」
ノアは槍を地面に置いた。
突飛な行動にオリバーが息を呑んだ。
風が吹き抜け、木々の葉がざわめく。
血の匂いが、春の匂いと混ざる。
「レイ様の夫には手を出すなと――ユウ様から命じられた」
ノアの声は静かだった。
「・・・ユウ様、が?」
セージの眉が動く。
遠くから、誰かの呼ぶ声がした。
「セージ様! どうされましたか!」
駆け寄る兵たちの気配。
ノアは素早く槍を拾い上げ、後方を振り返る。
「オリバー、行くぞ」
「名は――」
セージが声をかけた。
ノアは振り返りもせずに答える。
「ノアだ。レイ様に、よろしく伝えてくれ」
馬に飛び乗り、森を駆け抜けた。
春の風が頬を打つ。
その風は、血と花の匂いが入り混じっていた。
後を追うオリバーが、低く問う。
「ノア様・・・なぜ、あの方を逃したのですか」
「出陣前に、ユウ様と約束をした。 “セージ様を殺めないで”と」
「それは・・・重臣として・・・」
「わかっている」
ノアは淡く笑った。
「私の愚かな行動をキヨ様に報告しろ」
ノアは真っ直ぐに前を見て、馬を操る。
その横で、オリバーが静かに口を開く。
「ノア様・・・私は、かつてレーク城でグユウ様とシリ様に仕えておりました。
あなたがゴロク様に仕えられていたことも、承知しています」
ノアがわずかに視線を動かす。
「主は違っても――私たち、同じ想いを託されていますね」
「・・・姫たちを守れ、か」
ノアが小さく呟く。
「はい。私は、あのお二人から。ノア様は・・・ゴロク様から」
春風が吹き抜け、二人の外套を揺らした。
「あの方の言葉を、今も胸に抱いているのですね。・・・それが、あなたの忠義なのですね」
そう話すオリバーに、ノアは静かに目を閉じ、わずかに頷いた。
雨日は、いつも通り「スランプだ」と言いながら書いていますが、
気がつけば 400日で171万字を書いていました。
昨日ふと、自分の作品名をGoogleで検索してみたら、
とんでもない結果になっていて、家族に
「だから狂ってるんだよ」と言われました。
そのあたりのことを少しまとめたエッセイを書きました。
小説を書いている方は、きっと共感してもらえると思います。
もし気が向いたら、そっと読んでみてください。
才能がないから書き続けたら、Googleが評価してくれた
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
次回ーー本日の20時20分
春の光が満ちる朝、
ノアから届いた一行の手紙に、ユウの胸はそっとほどけた。
「今日は乗馬がしたいわ」
――戦の気配が迫る中で、
ユウ、シュリ、イーライの三人は、りんごの花咲く道へ向かう。
暖かな春風の下、
それぞれの胸に秘めた想いが、静かに揺れ始めていた。
『風に吹かれて、あなたを想う』




