忘れたはずの男からの封書
春の光が差し込む机の上に、封書の山が積まれていた。
黄色の封蝋。トミ家の旗印。
息を呑んだ瞬間、胸の奥に、冷たい痛みが走った。
忘れたはずの男の名が、そこにあった。
「・・・ユウ様、どうかお読みください」
イーライの低い声が、春の光を遮るように響いた。
その手には、大量のキヨからの手紙の束があった。
ユウはため息をついた。
――こうして争いの最中に、贅沢な暮らしができる。
それは、あの男のおかげなのだ。
それでも、やはり憂鬱だった。
「イーライ。私は、あの男が触れたものなど触りたくないの」
ユウは静かに言った。
口調は穏やかだが、その声は棘のように鋭い。
「しかし・・・」
イーライが困惑したように顔を上げる。
「イーライ、あなたが読んで」
ユウは命じた。
声は冷たく、それでいて逆らえない強さを帯びていた。
「承知しました」
イーライは恭しく頭を下げ、手にしたナイフで封を切る。
机の上には、いくつもの手紙が山のように積まれていた。
一通、また一通。
中身はどれも短く、表面的な挨拶ばかりだ。
「私が質問したことには、何も答えていないわ」
ユウが苛立たしげに呟く。
その声の冷たさに、イーライの背筋がわずかに伸びた。
「・・・次をお読みします」
淡々とした声で読み進めるイーライ。
けれど、ある手紙の途中で、言葉が止まった。
「どうしたの?」
ユウが顔を上げる。
「いえ・・・これは、ユウ様がお読みになった方が・・・」
イーライはわずかに目を泳がせた。
「構わないわ。続けて」
短い沈黙ののち、イーライは空咳をして再び口を開く。
「ユウ様、お誕生日おめでとうございます。
あなたという美しい女性が、この世に生まれたことは誠に喜ばしいこと・・・」
声が少し震えた。
その言葉が、自分の胸の奥の想いと重なったからだ。
「せ・・・戦場であなたの美しいお顔を思い出します。
どうか、素晴らしい一年になりますように」
そこまで読んで、イーライは息を詰めた。
喉が渇く。手紙の文字が滲む。
「続けて」
ユウの声が鋭く飛んだ。
射るような視線が、イーライを貫く。
部屋の隅にいたヨシノとシュリが、息を潜める。
張り詰めた空気の中で、イーライは再び口を開いた。
「ね・・・願わくば、わしの手であなたを幸せにしたい。
その唇に触れられたら・・・どんなに良いことかと」
読みながら、イーライは魂が抜けていく気がした。
――戦場より地獄だ。
それでも、逃げることは許されない。
忠誠の言葉のはずなのに、胸の奥が熱い。
――拷問だ。なんて任務だ。
「気持ち悪い!」
ユウが叫んだ。
怒りと羞恥の入り混じった声だった。
「イーライ、この手紙をすべて燃やして!」
「しかし・・・」
イーライはかすかに頬を染めながらも、戸惑うように言った。
「――あの男の手紙を、ここに置いておきたくないの!」
ユウの声が跳ねた。
そのとき、扉がノックされる。
「ミミ様がお呼びです」
サムが姿を現した。
イーライは深く一礼し、
燃やされることになった手紙を無言で手に取った。
机の上に残ったのは、春の光と――
まだ消えきらない、紅い頬の記憶だけだった。
◇ セーヴ城 レイの部屋
「ここの土地は、本当に暖かいですね」
乳母のサキが微笑みながら言った。
「本当に」
レイは頷き、窓の外を見つめる。
柔らかな陽の光が、部屋の奥まで差し込んでいた。
この地に嫁いで、もう五ヶ月が過ぎた。
出陣しているセージからは、たびたび手紙が届く。
最初は、まるで子どもに宛てたような内容だった。
もっとも、レイはまだ十一歳なのだから、彼の判断は正しい。
ところが、返信に戦の核心を突くような質問を送ったところ、
次の手紙からは、家臣に宛てるような口調に変わった。
今ではほとんど、戦況報告のような文面だ。
「この手紙の内容を・・・姉上が知ったら、きっと喜ぶだろうな」
レイは小さくため息をついた。
姉のいるワスト領と、自分がいるセーヴ領は、今は領交を断絶している。
もっとも、雪に閉ざされた冬の間は、もともと街道が塞がり、往来などできないのだけれど。
冬は諦めることができる。
けれど、春になると、交流できないことが身に染みる。
「こんなに長い手紙を書くのは・・・争いが停滞している証拠だわ」
「そうですね」
サキが穏やかに頷く。
争いのさなかに、こうして日常を過ごせる――それは、幸せな証拠なのかもしれない。
だからこそ、ふと寂しさが募る。
「姉上と・・・姉様に、逢いたい」
生まれた時から、そばにいた姉たち。
気の強いユウ。
穏やかに微笑むウイ。
二人の顔が、陽の光の中に浮かんだ。
そのとき、机の上の封書がわずかに揺れた。
窓の外では、春風が街道を吹き抜けていた。
次回ーー明日の20時20分
春――。
ユウのもとには縁談の封書の山が届き、
ジュンとキヨの陣にも同じ季節の風が吹いていた。
崩れた手紙の中で、ふいに触れたシュリの手。
胸が揺れる一瞬を残したまま、戦は本格的に動き始める。
三つの陣地に吹く春の風は、
それぞれの運命を、静かに変えようとしていた。
「春の風が届けた縁談の知らせ」




