触れてはいけない唇
静かな冬の章です。
ロク城の図書室で、ユウとシュリ、そしてイーライの想いが交錯します。
窓の外では、雪が深々と降っていた。
ロク城の図書室。
二人の若い男女が、静かに唇を重ねている。
――これで終わらせよう。
そう思いながら、シュリは唇を離した。
けれど、どこからともなく引き寄せられるように、
お互いの唇が、また触れた。
離れるたびに、名残惜しさが募り、
そのたびに口づけは少しずつ、深くなっていく。
――こんなことを、思ってはいけない。
そう思いながらも、シュリの手は、控えめにユウの背へとまわった。
その仕草は、いつもと違っていた。
ためらいと、確かな想いが混ざっていた。
ユウは目を閉じ、
雪の静けさの中で――ただ、彼のぬくもりを受け入れた。
身体を委ねるように、ユウはシュリに身を寄せた。
二人の吐息が、図書室の静寂に溶ける。
――コン、コン。
静寂を破る、軽いノックの音。
二人は同時に肩を震わせた。
「ユウ様・・・失礼します」
扉の向こうから、イーライの声がした。
シュリは慌てて距離を取り、姿勢を正す。
ユウも急いで袖で涙を拭い、出窓に腰を下ろすと、顔を外へ向けた。
扉が開く。
廊下の冷たい空気とともに、イーライが部屋へ入ってくる。
一歩踏み入れた彼は、すぐに足を止めた。
部屋の空気が――どこか違う。
静かすぎて、そして、ほんのりと熱がこもっていた。
イーライの視線が、ユウとシュリの間を行き来する。
二人とも、どちらも自然を装っているが・・・不自然だった。
出窓の下には、白いハンカチが落ちている。
床には本が一冊、裏返しになっていた。
シュリは慌ててそれを拾い上げ、
イーライは小さく息を吸うと、何も言わずに頭を下げた。
「こちらにおられましたか」
ユウは、わずかに遅れて頷く。
「ええ。そうなの」
その声は、少し掠れていた。
「・・・お二人で?」
イーライの眉がわずかに寄る。
いくら乳母子とはいえ、若い男女が二人きりというのは――好ましくない。
「ヨシノは先ほど、ミミ様に呼ばれたの」
ユウは窓の外を見つめたまま、穏やかに答える。
「・・・そうですか」
イーライは、ユウの衣服に乱れがないことを確認する。
だが、目に見えぬ何か――熱のようなものが、二人の間に確かにあった。
そのとき、図書室の扉が再び開く。
「遅くなりました」
ヨシノが息を整えながら入ってくる。
イーライはもう一度、小さく息を吸い、何も言わずに頭を下げた。
「・・・お茶のご用意が整いました」
「すぐに・・・部屋に戻るわ」
ユウの声は、ようやく少しだけ元に戻っていた。
けれどその頬の赤みは、暖炉の炎のせいだけではなかった。
◇
廊下に出たイーライは、胸の奥を押さえながら息を吐く。
冷たい空気が肺を刺すように痛い。
「・・・考えすぎだ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、目の奥に焼きついて離れない。
ユウの頬に残るわずかな赤み。
伏せられたまつ毛の震え。
そして、シュリの瞳に宿っていた、あの迷いと決意。
自分も同じような瞳をしてしまうかもしれない。
――見間違うはずがない。
イーライは壁にもたれ、額を押さえた。
胸の奥が、じんと熱い。
それは怒りなのか、嫉妬なのか、自分でもわからない。
彼女に悪い虫がつかないように見張るのが自分の務め。
それなのに、自分自身が彼女に惹かれている。
ミイラ取りがミイラになったかのよう。
あの青年の隣に立つ姿が、どうしようもなく――羨ましかった。
イーライは、シュリに何度も言いかけてやめた言葉を抱えている。
――ユウ様に、近づくな。
その言葉が喉まで上がる。
だが、口にできない。
それを言えば、自分が嫉妬していると告白するようなものだ。
そして、シュリが“乳母子”としてユウに仕えるのは、任務であり責務。
止める権利など、彼にはない。
イーライは、拳を静かに握りしめる。
忠誠の皮を被った嫉妬心が、胸の奥で静かに軋んだ。
「・・・私は、何を考えている」
小さく舌打ちして、手袋越しに拳を握る。
自分がどれほど愚かか、痛いほどわかっている。
ユウは“姫”であり、自分はただの家臣だ。
彼女に触れる資格などない。
そう思ってもいけないのだ。
それでも――もし、あの青年の代わりに立てるのなら。
その唇に触れられるのなら。
どんな罰でも、受けてもいいと思ってしまった。
イーライは、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気を胸いっぱいに満たす。
「・・・私は、家臣だ」
そう言葉にして、心を縫いとめる。
忠誠が、揺らいではならない。
この感情は、誰にも知られてはならない。
雪が、静かに降り続いていた。
まるで、すべてを覆い隠すように。
イーライは目を閉じ、溶ける雪の音に耳を澄ませた。
◇
ユウの部屋の扉の前に、イーライは静かに立っていた。
手には銀の盆。
白い陶器のティーポットからは、淡く湯気が立ちのぼっている。
けれど、表情には出さない。
イーライは、完璧な家臣の顔で扉を叩いた。
「ユウ様。お茶のご用意が整いました」
「・・・入って」
いつもの声。
けれど、その響きがわずかに柔らかい気がして、イーライの胸が小さく疼いた。
部屋に入ると、ユウはいつものソファーに座っていた。
開かれた本を膝に乗せ、雪の降る外を、静かに眺めている。
その横顔には、いつもの冷たさが戻っていた。
けれど、頬のあたりにかすかな紅が残っている。
それを見た瞬間、イーライの瞳を彼女を捉える。
「・・・イーライ?」
はっと我に返る。
「申し訳ございません」
すぐに頭を下げ、ティーカップに静かに茶を注ぐ。
黄金色の液体が揺れ、香りが立つ。
いつもと変わらない所作。
「今日は寒いので・・・ミルクも温めております」
ユウの好みを完全に知り尽くした言葉だった。
「そう・・・ありがとう」
「どうぞ」
イーライがお茶を差し出す。
ユウがカップを手に取り、ゆっくりと口をつけた。
「・・・美味しいわ」
その一言に、イーライの表情がわずかに和らぐ。
――その顔を見たくて、お茶を淹れる時間を心待ちにしている。
けれど、その想いに気づくたび、胸の奥が痛んだ。
この方の傍らに立てるのは、自分ではない。
今、その役目を担っているのは――ちらりと、部屋の隅に立つ青年の姿が目に映る。
シュリは無言で、ユウの背後に控えていた。
いつものように、完璧な距離を保ち、静かに控えている。
イーライは視線をすぐに戻し、心を封じるように言った。
「ユウ様、本日はお誕生日おめでとうございます」
静かに頭を下げる。
「・・・イーライ、知っていたの?」
ユウは驚いたように、カップ越しから目を上げた。
「はっ。主キヨ様より、贈り物をお預かりしております」
出陣の直前、キヨはそれを手渡してきた。
――『これをユウ様に届けよ』
イーライは小さな箱をテーブルに差し出す。
「・・・あの男。そういうところだけは、ちゃっかりしているのね」
ユウは呆れたようにため息をつく。
「キヨ様は・・・ユウ様のために贈り物を選ばれたとき、たいそう楽しげでした」
ユウに限らず、キヨは惚れた女には贈り物を惜しまない。
筆まめで、手回しの早い男だった。
「そういうところが・・・苦手なの」
ユウが静かに言い捨てた。
イーライは思わず、なぜ? という表情を見せてしまう。
「・・・あの男は武力ではなく、話術と懐柔で城を落とすわ」
ユウの言葉は冷たくも、鋭い。
「女も同じように捉えているはずよ」
その指摘は、正しかった。
イーライは目を伏せた。
しかし、続いたユウの言葉に、また顔を上げる。
「これからは・・・武力ではなく、ああいう男が世の中を動かしていくのよね」
その声には、悔しさとわずかな寂しさが混じっていた。
イーライは深く頭を下げる。
――聡い方だ。どこまでも、見えていらっしゃる。
「どうか・・・お受け取りください」
ユウはため息をつきながら箱を開けた。
中には、青い宝石をあしらった銀の髪飾りが収められている。
「見事です!」
感嘆の声を上げたのは、乳母のヨシノだった。
「・・・そうね」
ユウは箱の蓋をそっと閉じ、紅茶をもう一口すする。
イーライは思った。
ーーシュリの話した通りだ。
ユウ様は、衣装にも飾りにも興味を示されない。
普通の女性なら喜ぶ贈り物も、彼女の心には届かない。
それを主に報告すべきか、イーライは一瞬迷った。
ユウは無造作に箱をテーブルの端に置いた。
「イーライ、お茶のおかわりを」
そう言って、ふっと微笑む。
「はっ」
イーライは小さく頭を下げ、ポットを傾ける。
紅茶の香りが、静かに二人の間を満たした。
――やはり・・・美しい。
イーライは胸の奥で呟く。
どんなに頭で否定しても、心は追いつかない。
彼女の笑みを近くで見るたびに、それを自覚する。
ーー好いている。
その想いが溢れそうになる。
茶を注ぐ手がわずかに震える。
その震えを悟られぬよう、イーライは深く息を整えた。
「・・・お口に合いますように」
イーライは頭を下げ、静かに部屋を後にした。
扉が閉まると、暖炉の前に静寂が戻る。
ユウは紅茶を見つめたまま、ふと後ろのシュリに目をやった。
「・・・イーライ、最近変ね」
「はい」
シュリは短く答えたが、目はユウを見ない。
雪の降るロク城の午後、
三人の想いは、それぞれ違う熱を帯びていた。
イーライは、決して口にしない想いを抱えています。
忠誠と恋のあいだ――その境界は、いつも紙一重。
雪の降る城の中で、
三人の沈黙が、今後、少しずつ物語を揺らしていきます。
次回ーー明日の20時20分
図書室の口づけの余韻が残る朝、
「シュリに好いた人がいる」という噂がユウを揺らす。
そこへ本人が現れ、さらにキヨの手紙まで届きーー心が動きはじめる。
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その一つ一つの積み重ねで、
ランキングに顔を出すことができたのだと思います。
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