あなたが生まれて、よかった
「・・・すごい本の数です」
図書室に、シュリの声がしんと響いた。
ロク城の図書室には、見渡す限りの本棚と、夥しい数の書物が並んでいた。
「レーク城の本も、ここに運ばれたそうですよ」
ヨシノが答える。
「でしょうね」
ユウは低く息を吐いた。
「あの男が本を読む姿なんて――想像もできないわ」
その言葉には、鋭い棘があった。
滅ぼされた城、奪われた知。
この部屋に積まれた本の山が、ユウには屈辱の証のように思えた。
ユウとシュリ、そして乳母のヨシノは、
雪の合間を縫ってこの図書室に足を運んでいた。
「こちらの棚にあるのは、ユウ様の祖父――マサキ様の蔵書でございます」
ヨシノが古い背表紙を指で示す。
「・・・すごい。軍事関連の本ばかり」
ユウは息をのんだ。
革の装丁に刻まれた金文字を指先でなぞりながら、
ほんの少しだけ表情が柔らいだ。
そのとき、図書室の扉がノックされた。
音が静寂を切り裂く。
ヨシノが慌てて扉を開けると、侍女が深く頭を下げた。
「ヨシノ様、ミミ様がお呼びです」
「・・・私に?」
ヨシノは意外そうに目を瞬かせた。
「・・・その、衣類の件で・・・」
侍女が言いにくそうに言葉を濁した。
「ああ」
ヨシノはすぐに察して、静かに頷く。
――ユウの下着選びの件だ。
「少しの間、席を外します。大丈夫ですか?」
ヨシノがユウに尋ねる。
「シュリがいるから、大丈夫」
ユウは本を手に取りながら答えた。
「それでは――すぐに戻ります」
ヨシノは頭を下げ、図書室を後にした。
重い扉が閉じられる。
広い部屋の中に、二人だけが残された。
一瞬、静寂が降りる。
ユウは本を読もうと、出窓に腰を掛けようとした。
それを見て、シュリは慌ててハンカチを取り出す。
「冷えますから」
そう言って、布を広げて窓辺に敷いた。
「ありがとう」
ユウは微笑み、外へ目を向けた。
窓の向こうにはロク湖が広がっている。
雪はゆっくりと降り続き、湖面に落ちるたびに、静かに溶けて消えていく。
しばしの沈黙。
その静けさの中で、シュリが口を開いた。
「ユウ様・・・お誕生日、おめでとうございます」
ユウは驚いたように顔を向けた。
「覚えていたの?」
「・・・はい。おめでとうございます」
控えめな笑顔。
けれどその声音には、確かなあたたかさがあった。
「・・・ありがとう」
ユウはそっと目を伏せた。
そのとき、シュリが少しだけためらい、それから勇気を出したように言った。
「伺っても、良いですか」
ユウは視線を窓の外に向けたまま、小さく頷く。
「シリ様からのお手紙には・・・何が書かれていたのですか?」
静かな声だった。
けれど、その質問に込められた思いは、長い年月を経た重みを持っていた。
レイが嫁ぐ前日。
乳母の手から、それぞれに母が生前に残した手紙が渡された。
その手紙には――
自分たち三姉妹の名前の由来と、出生のことが記されていたという。
ウイもレイも、それを読んで涙を流した。
けれど、ユウだけは微笑み、何も語らなかった。
その微笑みが、ずっとシュリの胸に引っかかっていた。
悲しみなのか、強がりなのか。
どうしても、知りたかった。
そして今、
静かな冬の図書室でようやく――その答えを尋ねる勇気が持てたのだった。
「・・・父上が、母上に伝えたと書いてあったの」
その声は、少し震えていた。
ユウの瞳が、遠い過去を見ていた。
「“オレが望んだ子だ。シリに似ている。この子は・・・きっと美人になる”って」
唇がわずかに震えた。
ユウはドレスの裾を、ギュッと握りしめる。
「落城の日――母上は私に話してくれたの。
“私の顔を見て、父親が誰なのかわかった”って。・・・父上も、きっとそうだったと思う」
言葉は淡々としていた。
けれど、その奥には血のような痛みが流れていた。
シュリは息を呑み、ただユウを見つめた。
「私の名前は・・・父上の名前、“グユウ”の“ユウ”を取ったと」
ユウは微かに笑おうとしたが、唇が震えた。
「どんな思いで・・・十五年前の私を見つめていたのかしら」
その声は、まるで夢の中の囁きのようだった。
けれど、部屋の空気がぴんと張り詰めるほどの真実味を帯びていた。
シュリは言葉を失った。
ユウの横顔が、雪の光を受けて静かに滲んでいる。
彼女の瞳に映るのは、もう目の前の景色ではない。
かつての母と、失われた父と――そして“愛された証”と“許されざる血”。
「・・・きっと、グユウ様は今のユウ様を見たら――喜ばれると思います」
シュリが静かに言った。
「・・・なぜ?」
ユウは涙に濡れた瞳で、彼を見上げる。
「グユウ様が望まれた通り・・・ユウ様は、美しいです」
その言葉に、ユウは息を詰めた。
燃えるような暖かさと、どうしようもない哀しみが胸の中でぶつかり合う。
「・・・美しさなんて、いらないわ」
ユウはかすかに首を振った。
母に似たこの顔――そのせいで、あの男に執着される。
もし、もっと醜ければ、どれほど楽だっただろう。
「・・・私は、そうは思いません」
シュリの声は少し上ずっていた。
けれど、その瞳は真っ直ぐで、曇りがなかった。
「その強い志も、まっすぐな瞳も・・・そして、美しい容姿も。その全部が、ユウ様という方です」
ユウは目を伏せた。
胸の奥に、言葉にならないものが溶けていく。
暖炉の火がパチリと音を立てた。
その一瞬だけ、彼女の頬を伝う涙が光を帯びた。
「・・・今日は、誕生日だから。欲しいものがあるの」
ユウは窓の外を見たまま、ぽつりと呟いた。
シュリの身体が、かすかに強張る。
ユウが望むもの――それを贈るだけの財も、立場も、自分にはない。
「・・・私に、できることがあれば・・・」
オズオズと、シュリが口を開く。
ユウは少しだけ振り返った。
その瞳には、炎の光が淡く映っている。
「シュリじゃないと、無理なの」
「・・・なんでしょう」
息を詰めながら、シュリが問う。
ユウは、ゆっくりと立ち上がり唇を開いた。
「・・・口づけをして」
「――え・・・」
シュリは言葉を失い、その場に立ち尽くした。
彼の中で、何かが静かに軋んだ。
部屋の中の音が消える。
外の雪の音すら、聞こえない。
二人の間には、過去の記憶が静かに重なっていた。
――口づけは、これまでにもあった。
けれどそれは、いつもユウからだった。
怒りや哀しみ、感情が高ぶったとき、彼女は衝動のままに唇を重ねた。
そのたびに、シュリは戸惑い、立ちすくむしかなかった。
自分から求めたことなど、一度もない。
だからこそ――
今の「お願い」は、まるで世界の均衡を壊すような響きを持っていた。
ユウの視線が、ゆっくりと彼を捕らえる。
その瞳には涙が浮かんでいる。
シュリは立ち尽くしたまま、息を呑んだ。
ユウの瞳がまっすぐ自分を見つめている。
炎の明かりが彼女の頬を照らし、涙の跡をかすかに浮かび上がらせていた。
その姿は、気高く、どこか儚かった。
「・・・ユウ様、それは・・・」
声が震える。
喉の奥がひりついて、うまく言葉が出ない。
「いいの」
ユウは小さく首を振った。
「誕生日だから。今日だけでいいの。――お願い、シュリ」
その“お願い”という響きが、命令よりもずっと重たく感じられた。
シュリの足が、自然に一歩、前へ出る。
距離が近づくたびに、心臓の鼓動が痛いほど響く。
手を伸ばせば、届く距離。
けれど、その一歩が永遠の境界のようだった。
「・・・ユウ様、私は・・・」
言いかけて、言葉が消えた。
ユウの瞳に映る自分の姿を見た瞬間、すべての理性が、氷のように音を立てて溶けた。
そっと、シュリはユウの頬に手を添えた。
指先が、かすかに震える。
ユウは驚いたように目を見開き、すぐに恥ずかしそうに視線を伏せる。
頬に触れる温もりが、心臓の鼓動よりもはっきりと感じられた。
シュリは、その表情をじっと見つめた。
長いまつ毛が、やがてゆっくりと上がり――ユウの瞳が、まっすぐに彼を見つめ返す。
二人の視線が絡み合った瞬間、時間が止まった。
外の雪さえ、音を失う。
そして、シュリは静かに唇を重ねた。
窓の外には、一面の雪景色。
白い光が二人の頬を淡く照らしている。
ユウの手が、思わずシュリの背に回った。
指先が震えながら、彼の衣を掴む。
シュリはそっとその背を抱き寄せた。
互いの吐息が交わり、熱と冷たさが溶け合う。
少し唇を離すと、シュリは息を整え、かすかに微笑んだ。
「・・・ユウ様が、生まれてくれて・・・本当に、良かったです」
その言葉は、雪よりも静かに、ユウの胸に落ちた。
ユウはただ、目を閉じて頷いた。
涙が頬を伝い、それでも――微笑んでいた。
次回ーー本日20時20分
雪の降る図書室で交わされた、誰にも知られてはならない口づけ。
戻らない距離を知りながら、三人の胸にそれぞれの想いが宿りはじめる。
――やがて、その感情は静かなまま、確実にぶつかり合う運命へと向かっていく。




