誰にも言えない恋
夜明け前の稽古場。
イーライは木剣を肩に担ぎ、静かな廊下を歩いていた。
まだ空は群青色のままで、雪の光だけが石壁をかすかに照らしている。
空を見ても、積もる雪を見ても、思い出すのはーー
あの方の眼差し。
イーライは小さなため息をつき、目を閉じた。
――剣を振って頭を冷やそう。
そう思いながら扉に手をかけたその時、
中から、規則正しい木剣の音が響いた。
「・・・もう誰かが?」
まだ薄暗い稽古場。
朝の冷気の中で、木を振る乾いた音が連続して響いている。
扉の隙間から覗くと、
淡い光の中でシュリが一人、木剣を振っていた。
動きは正確で、迷いがない。
まるで戦士のように――いや、戦士以上に無駄がない。
――使用人なのに、一心不乱に稽古をしている。
イーライは思わず足を止める。
何のために、そこまで必死に・・・。
その答えを悟った瞬間、イーライは息を呑んだ。
木剣を振るうその背に、はっきりと理由が見えた。
――ユウ様のためだ。
彼女を守るために、強くなろうとしている。
目を見開いたまま、イーライは動けなくなった。
そのとき。
「お疲れさまです、シュリさん!」
裏の小扉から、マリアが木箱を抱えて入ってきた。
イーライの眉がぴくりと動く。
視線の先には、
栗色の髪を三つ編みにした女中――マリアの姿があった。
彼女は木剣を下ろしたシュリに駆け寄り、白い布を差し出した。
「汗を拭かないと風邪をひきますよ」
「いえ・・・大丈夫です」
柔らかな笑顔と、戸惑いの声。
イーライは、息を潜めた。
そのやり取りの続きを、聞くべきではなかったのに。
「・・・私、シュリさんともっと話したいです」
マリアが一歩、近づいた。
稽古場の光が彼女の頬を赤く染める。
しばらく沈黙が落ちた。
そして、シュリが静かに口を開いた。
「ごめん。私には・・・そんな時間は、ないのです」
シュリの声は穏やかだったが、その奥に決意の硬さがあった。
「十五分だけでも」
マリアは諦めずに顔を覗き込む。
「すみません。私には・・・好いた女性がいるのです」
「・・・好いた、女性・・・?」
マリアの顔が一瞬、強張る。
「はい。ですから・・・お話はできません」
シュリは申し訳なさそうに眉を寄せ、静かに頭を下げた。
「その方とは・・・もう、お付き合いされているのですか?」
マリアの声は、かすかに震えていた。
「いいえ」
「なら・・・話ぐらい・・・」
マリアは手にした布をギュッと握りしめた。
シュリは一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐ彼女を見た。
「それは――あの人を喜ばせたいので、しません」
マリアは、シュリの言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど、朝の淡い光の中で見つめるその瞳には、
“自分ではない誰か”を想う光がはっきりと滲んでいた。
マリアは呆然と立ち尽くした。
やがて、小さく頷き、「・・・そうですか」とだけ言うと、
笑顔を作り、そっと背を向けた。
廊下に足音が遠ざかる。
稽古場の中に、再び静寂が戻る。
イーライは稽古場の柱の陰に身を寄せ、最後まで声を漏らさずに見届けた。
――そういうこと、か。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
鈍い痛みが広がり、指先がかすかに震える。
剣を握り直す。
手のひらの中で木の柄が冷たい。
“好いた女性”――その言葉が耳から離れない。
あの静かな声、まっすぐな瞳。
どこにも嘘はなかった。
ーー分かっている。誰のことか。
イーライは深く息を吸い、寒気を肺いっぱいに満たした。
忠誠と任務。
それが彼に残された、唯一の拠りどころだった。
イーライは静かに稽古場へ入った。
まだ薄暗い朝。
冷たい空気の中で、木剣を振るう音が響いていた。
その音が止まり、シュリが振り返る。
二人の視線が、わずかな時間、ぶつかった。
「・・・イーライ様」
「すまない、邪魔をする」
イーライは懐から書簡を軽く掲げた。
「ユウ様の件で、キヨ様に報告をする必要がある。少し、質問をしてもいいか」
「・・・はい」
シュリは木剣を脇に置き、姿勢を正した。
「ユウ様は・・・衣類や装飾に関心は?」
その声は冷静に聞こえたが、わずかに迷いが滲む。
「ありません」
シュリは静かに答える。
「服装にはあまり頓着がありません。衣類はミミ様や母が整えております」
「そうか・・・」
イーライは手元の紙に何かを記すふりをした。
けれど、ペンは止まり、視線がふと上がる。
「では、好きな食べ物は?」
「甘いものです。杏が好きです」
「花は?」
「白百合の花を好まれます」
「・・・では、嫌いなものは?」
シュリは少しだけ目を伏せ、間を置いてから答えた。
「・・・キヨ様です」
イーライは、息を呑んだ。
「幼い頃にグユウ様を亡くされて・・・シリ様も・・・悲しい想いを、たくさんされました」
その声には、淡い哀しみが滲んでいた。
イーライは手の中の紙を見つめたまま、何も書けなかった。
「・・・嫌いなものが、好きになることは・・・」
問いかけながら、自分の声がかすれるのを感じた。
「――あの気性ですから、あまりないかと」
シュリは穏やかに答える。
稽古場に再び静寂が訪れた。
遠くで風が鳴る音だけが響く。
イーライは深く息を吸い込み、雪の冷気で心を鎮めようとした。
「ありがとう、助かった」
「いえ・・・お役に立てて光栄です」
互いに礼を交わし、視線が一瞬、重なった。
それ以上、言葉は続かない。
互いに、同じ名を思い浮かべていることを知っていた。
イーライとシュリ。
二人は仲が悪いわけではない。
むしろ、仕事の手際も、判断の早さも、互いに信頼している。
ただ――近づけない。
そこにあるのは、身分の差ではない。
もっと厄介で、言葉にできない壁。
それは、同じ人を想っているという事実だった。
誰よりも近くでその人を見つめながら、決してその想いを口にしてはいけない。
そういう立場を、二人とも痛いほどわかっている。
だから、言葉は少なくなる。
目を合わせるたびに、静かに胸が軋む。
――恋のライバルであり、同志。
それが、イーライとシュリの関係だった。
だが、この“均衡”が崩れるのは――、そう遠くない。
今日はご報告があります。
この連載――
注目度ランキング(連載中)にランクインしました。
読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
テンプレでもなく、軽くもなく、
癇癪持ちの主人公と一緒に、風速3で進んでいく作品ですが、
それでも誰かの目に留まったことが、とても嬉しいです。
そして、もう一つ。
この連載の裏側をエッセイとして書きました。
2作目の老人と恋愛しない政略婚の話や、
家族の容赦ないツッコミ、
エッセイが小説のポイントに勝った悲劇など・・・
雨日が身悶えしながら書いた“裏話”です。
興味のある方だけ、そっと覗いてみてください。
「非テンプレ2作がランクインしたら、家族が運営に同情し始めた話」
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
次回ーー明日の9時20分
静かな図書室で交わされた、たったひとつの問い。
“母の手紙に、何が書かれていたのか”――
その答えは、ユウの十五年を溶かすように胸を打つ。
そして誕生日の朝、ユウが願ったのはただひとつ。
「・・・口づけをして」
雪の降る窓辺で重なった唇が、
二人の関係を、もう後戻りできない場所へと導いてゆく――。
「あなたが生まれて良かった」




