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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第3章 潮騒の婚礼 ――そして戦が始まる
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私の前だけで、笑ってほしい

「・・・レイは、今どうしているのかしら」

ウイがぽつりと呟いた。


ロク城・西の棟、二階。


暖炉の火は穏やかに燃え、部屋の中は春のように暖かい。

けれど、窓の外は一面の雪景色だった。


戦が始まって、もう三ヶ月。

季節はすっかり冬に変わっていた。


ユウは読んでいた本をパタンと閉じる。


「本当ね」


こうしてウイと過ごしていると、自然とレイのことを思い出す。


ユウは、いつもレイが座っていた椅子の座面にそっと手を置いた。


「寂しくないのかしら・・・」


ーーもともと、口数の少ない妹だった。

元気にしているだろうか。

風邪はひいていないだろうか。

心配は尽きない。


「手紙も・・・交わせませんしね」

ウイがため息をつく。


レイが嫁いだセーヴ領と、ワスト領との間は、いまや完全に断絶していた。

生死さえ、わからない。


ユウは窓辺に立ち、外を見た。

深々と降る雪が、遠くの森を覆い隠している。


「どちらにしても・・・雪が降れば、道は閉ざされるわね」

その声は、冷えた空気に溶けていった。


「そうですね。キヨ様からのお手紙も、もう来ませんし」

ウイが小さく笑う。


「・・・あの男の手紙なんて、気持ち悪くて燃やしたわ」


雪が降る前、キヨは戦地から何度も手紙をよこした。


一通一通は短いものだったが、ほぼ毎日。


受け取ったユウは、イーライに声を出して読ませ、

内容を聞き終えるとすぐに言った。


「――燃やして」


イーライは躊躇いながら、手紙を暖炉にくべる。


炎で紙が丸まり、文字が黒い灰に変わる。


ユウはその光景を、冷たい瞳で見つめていた。


イーライに“返信を”と勧められ、ユウは渋々、ペンを取った。


内容はただひとつ――セーヴ領の領主、セージの命を奪わないでほしいという願い。


「勝敗は・・・どちらも決していないようですね」

シュリが静かに口を開く。


「キヨ様と西領のジュン様、何度も衝突しても、結果は五分のままのようです」


「どちらも、強い領主だもの」

ユウは淡々と答えた。


「この争いは、長引くでしょうね」


その声を聞いて、ウイはふっと息を吐く。


どこか、力が抜けたようだった。


――姉上は男の人みたい。


戦や戦略の話になると、表情が変わる。


ウイには分からない世界だった。


本当は、春のドレスの色や刺繍の糸の話をしていたい。

甘いお菓子の話をしたい。


それなのに――姉上の前では、そんな会話はできない。


話題を変えようと、ウイはテーブルの上の本を手に取った。


「姉上、何を読んでいたの?」


ページを開いた瞬間、ウイは息を呑んだ。


そこには、毒の種類と、服用した際の症状が細かに記されていた。


「毒・・・?」


「ええ。毒について調べているの」

ユウは微笑んだ。


慌てて、隣の本に手を伸ばす。


けれど、それを開いた瞬間、手が震えた。


――『人を殺める方法』

冷たい題名が、黒々と印字されていた。


「姉上・・・これは・・・」


ユウが戦や戦術の書を読むのは珍しくない。


けれど、これは――明らかに異質だった。


ユウは穏やかに微笑んだ。


「見聞を広めるためよ」

その声は、少しだけ硬かった。


まるで自分に言い聞かせているように。


部屋の片隅で、シュリは静かに目を伏せた。


――その“見聞”の先に、何を見ているのか。


彼は、知ってはいけない予感を抱いていた。


「シュリ、新しい服、似合っているわ」

話題と空気を変えたくてウイは、シュリに話しかける。


「ありがとうございます」

シュリが静かに頭を下げる。


シュリの新しい洋服は、深い森を思わせるビロードの深緑だった。


厚手の生地は冬の光を柔らかく受け、動くたびに微かな陰影を生む。


襟と袖口には細い銀糸が縫い込まれ、決して派手ではないのに、ひと目で仕立ての良さがわかる。


その色は、彼の茶色の瞳とよく合っていた。


光の角度によって、瞳が琥珀にも見え、深緑の布地がそれを際立たせる。


「・・・似合っていますね」

ヨシノがぽつりと呟く。


「その服を着ていると・・・前より背が高く見えます」

ウイの乳母、モナカが頷く。


シュリは困ったように微笑み、視線を床に落とした。


「恐縮です」


「ミミ様は、洋服のセンスも良いのね」

ユウが小さく呟く。


シュリが新しい服を着るようになってから、城の中の空気が、わずかに変わった。


廊下ですれ違う女中たちが、小声で何かを囁き、目を細めて笑う。


「ねえ、あの方・・・乳母子のシュリさんよね?」

「まあ、あんなに整った顔をしていたかしら」

「ミミ様のお仕立てだって。あの生地、高価なのよ」


ささやきはやがて、憧れの混じった噂に変わっていった。


彼が通ると、女中や侍女たちは思わず姿勢を正し、髪の毛をむやみに触っていた。


深緑のビロードが揺れるたびに、

城の灰色の廊下に、春の影が落ちたようだった。


ユウは、その光景を遠くから見ていた。


――シュリは、変わった。


いや、違う。彼自身は何も変わっていない。


変わったのは、周りの目だ。


ーー服一つで、人はこうも扱われ方が違うのね。


そう思いながらも、心のどこかがざわめいていた。


城は今、男手が足りなかった。


力仕事のときは、乳母子であるシュリも呼ばれる。


この日は、城下町から燃料の木材が届いた。


本館の前庭には荷車がずらりと並び、城中の男たちが総出で材を運んでいる。


冬の光が灰色の空から射しこみ、白く濁った息が幾筋も立ちのぼる。


ユウは、ウイとモナカと一緒に、

本館の階段上のホールからその様子を見ていた。


下の中庭では、シュリが他の男たちと肩を並べ、

大きな薪を抱えて運んでいる。


動きは静かだが無駄がなく、力強い。


「・・・シュリ、力強い!」

ウイが感心したように言う。


「乳母子とは思えませんね。まるで兵士のようです」

モナカが頷いた。


ユウは黙って、その姿を見つめていた。


息が白く上がるたび、彼の額にかかった髪が揺れる。


「・・・働き者ね」

ユウは小さく呟いた。


けれど、その声の奥にある感情は、自分でもうまく掴めなかった。


ふと、下の方で女中たちの笑い声が上がる。


「シュリさん、こっちお願いします!」

「まぁ、頼もしいこと!」


明るい声の中に、豊かな栗色の髪を三つ編みにした少女が駆け寄る。


彼女は木箱を抱えながら、まぶしいほどの笑顔を浮かべていた。


シュリは受け取った荷を軽々と持ち上げる。


少女は驚いたように口元を押さえた。


「まあ・・・本当に力持ち!」


その笑顔を見た瞬間、ユウの胸の奥に、熱いものがこみあげた。


「相変わらず・・・シュリはモテるわね」

ウイがクスッと笑う。


モナカが勢いよく口を開いた。


「シュリは女中だけでなく、侍女にも人気があるんですよ。優しくて、礼儀正しいって」


まるで我が子を自慢する母のように、嬉々として語る。


「・・・あの女中は?」

ユウは努めて冷静を装いながら、低い声を出した。


「マリアという女中です。縫い物の腕は確かで、シュリの洋服を縫ったのは彼女ですよ。

採寸の時から、あの二人は仲が良かったです」

モナカは悪気なく微笑んだ。


「そう」

ユウの声は、氷のように冷たかった。


その響きを聞いて、ウイは不安げにユウの横顔をちらりと覗く。


雪混じりの風がホールに吹き込んだ。


ユウは裾を押さえながら、もう一度下を見下ろす。


下の前庭では、シュリが笑っていた。

マリアが何かを言い、彼が少し照れたように頷く。


――シュリが笑うのは、私の前だけでいいのに。


その思いは、自分でも驚くほど鋭く、胸の奥を焼いた。


最近、家族から

「小布施で秋刀魚を売るな」

という不可思議な言葉をいただきました。


・・・小布施? 秋刀魚?

なぜ雨日が?


その一言から、雨日の小説の“立ち位置”について家族と議論になり、

最終的には

「雨日の作品は、栗の名産地で秋刀魚を売っているようなものだ」

という衝撃の評価に。


詳しくは、エッセイにまとめました。

もしよければ、休憩がてら覗いてみてください。


『小布施で秋刀魚を売るような小説を書いています』


https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/


重い本編とはまったく違う、軽めの読み物です。

息抜きにどうぞ。


次回ーー明日の20時20分

雪の降るロク城の夜。

ユウは胸に生まれた“名前のつかない痛み”に気づきはじめる。

翌朝、稽古場で微笑み合うシュリと女中マリアを目にした瞬間――

抑えてきた想いが、静かに軋みをあげる。


「・・・あなたに、幸せになってほしいの」

そう願うほどに、胸の奥は苦しくなる。


淡い雪の朝、二人の距離は近づき、

けれど“主と乳母子”の間に落ちる沈黙だけが、切なく深まっていく――。

「それは秘密です」

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