あの男に抱かれる日が来る
出陣を見送ったあと、ユウは速やかにドレスを脱いだ。
――あの男が仕立てた衣など、一刻も早く身から離したかった。
淡い水色の布を外すたびに、胸の奥がざらつく。
銀糸が光を失い、床に落ちた。
簡素な服に着替えると、ようやく呼吸ができた気がした。
小さく息を吐いた、そのとき。
扉が、控えめにノックされた。
ユウはすぐに顔を上げる。
「・・・イーライ? どうぞ」
「失礼します」
イーライが静かに扉を開けた。
「ミミ様がお呼びです」
「ミミ様・・・?」
ユウの表情がわずかに強ばる。
ミミ――あのキヨの正妻。
彼女の夫から高価なドレスを贈られた自分。
そして、あの男が口にした“国王になる”という言葉。
ユウは唇を結んだ。
――まさか、何かを察したのだろうか。
イーライは、ユウの心を読んだように続けた。
「衣類の件で・・・ご相談があるとか」
ユウは一瞬、目を伏せた。
心のどこかで、安堵と不安が入り混じる。
「・・・わかりました。すぐに参ります」
静かな声でそう言うと、鏡に映る自分の顔を見つめた。
そこには、もう“姫”ではなく、“一人の女”の表情があった。
◇
ミミの部屋に、弾むような声が響いた。
「ユウ様、この衣装はどうでしょうか? 春に向けて華やかな色が良いと思うの」
ミミは淡い桃色の生地を胸に広げた。
やわらかな光を受けて、布地が花びらのように揺れる。
「はい・・・とても素敵です」
ユウは静かに頷いた。
ミミは嬉しそうに布を撫でながら、女らしい笑みを浮かべる。
その無邪気さに、ユウの胸が少し痛んだ。
思い切って、口を開く。
「ミミ様・・・いつもお気遣いありがとうございます」
ユウは深々と頭を下げた。
「けれど、衣装は十分に間に合っています。
ご負担をかけるようで・・・心苦しいのです」
ユウの声は穏やかだったが、その言葉の奥に微かな張りがあった。
ミミは一瞬、驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく笑った。
「そんなこと、気にしなくても良いのよ。
ユウ様はお美しいのに、衣に興味がないから、お節介をしているだけなの」
「・・・それでは」
ユウは姿勢を正し、静かに続けた。
「私の衣類は十分です。その分を、シュリの服にお願いします」
部屋の空気が止まった。
ミミはもちろん、後ろに控えていたシュリ、
そして部屋の奥にいたイーライまでもが、目を見開いた。
姫が使用人の衣類を願い出る。
あまりない光景であった。
「ユウ様・・・私は、不自由しておりません」
シュリが狼狽したように言う。
ユウは首を横に振った。
「乳母たちの衣類は支給されています。けれど、シュリの服はなくて」
乳母子の衣類など、もともと用意されていなかった。
母が生きていた頃――シュリの服は、すべてシリが手配していた。
けれど、この城に戻ってから、シュリに新しい服が与えられることは一度もなかった。
汚れてはいない。
けれど、彼の身体は日に日に成長している。
裾も、袖も、もう短くなっていた。
ユウはその姿を見るたびに、胸の奥がちくりと痛んでいた。
ミミは手にしていた布を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「・・・そうね。確かに、そうだわ」
その声は、どこか恥じ入るようでもあり、安堵しているようでもあった。
「今すぐにシュリの洋服を何着か仕立てなくては・・・私の趣味で良ければ、布を見立てておくわ」
ユウは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、ミミ様」
「そのほかに、ユウ様とウイ様のドレスを仕立てないと」
ミミは微笑んだ。
「ミミ様・・・」
ユウは困惑したように話す。
「私には・・・子供がいないのよ。ユウ様も、シュリもイーライも・・・皆、私の子供よ」
その声に、ユウは口を開きーーそして閉じた。
「お気持ち・・・嬉しいです」
ユウの声は震えていた。
シュリが後ろで涙をこらえるように目を伏せた。
◇
昼過ぎ。
ユウは西の棟のバルコニーに立ち、外を眺めていた。
冬の前の束の間の暖かさ。
今朝、多くの兵が争いのために出陣したとは思えないほど、城は静まり返っていた。
目の前に広がるロク湖は、すでに冬の色をしている。
陽光を受けても輝かず、ただ鈍く、深く、静かな青。
ユウは水色の外套を肩にかけ、冷たい湖風を受け止めていた。
「お身体が冷えますよ」
背後から、シュリの静かな声。
彼は二枚のショールを手にしていた。
ユウは銀色の方を取り、水色のショールをシュリへ差し出す。
「使って。冷えるわ」
拒まれても、譲らないだろう。
シュリは黙ってそれを受け取り、肩にかけた。
ショールから、ほのかにユウの香りがした。
「ユウ様・・・衣類の件、お気遣いありがとうございました」
シュリは頭を下げた。
「もっと早く気づけばよかったのに・・・ごめんね」
ユウの声は、湖の波のように静かだった。
「いえ。そのようなことは――」
二人はそれきり言葉を止め、しばらく湖の先を見つめた。
灰色の水面に、薄雲が映っている。
やがて、ユウがぽつりと呟いた。
「・・・辛いの」
「何がですか?」
シュリが顔を上げる。
「ミミ様が、とても良い人だからよ」
シュリは少し困ったように眉を寄せた。
ユウの伝えたいことが分からなかった。
「あの男は、私を妾にしようとしている」
ユウの声は低く、風に溶けた。
「・・・はい」
シュリは目を伏せた。
「それを知ったら、ミミ様はどう思うでしょうね」
「ミミ様は・・・もう慣れておられると思います。妾が二十四人もおられますし・・・」
ユウは苦く笑った。
「ミミ様が優しくしてくださるたびに、私は胸が痛むの。もし、あの男の妾になったのなら――」
言葉が震えた。
ユウの瞳が涙でゆらめく。
姫は、自分の配偶者を選ぶことなどできない。
いくら嫌でも、どんな男でも、命じられれば嫁がなければならない。
――それが、この国の“秩序”というものだ。
ユウは湖面を見つめたまま、
その秩序の冷たさを、冬の風のように感じていた。
どんなに嫌がっても、あの男に抱かれる日が来るかもしれない。
考えたくもない――だが、キヨの顔を思い出すだけで、その現実が迫ってくるのを感じた。
「妾になるには、妃の許可が必要です」
シュリが震える声で言った。
「ミミ様はお優しい。ですから・・・嫌がるユウ様を妾にする許可は、きっとお出しにならないと思います」
ユウははっと顔を上げた。
――そうだった。あの方なら、無理強いはさせないはずだ。
暗闇の中に差した一筋の光のように、その思いが胸に差し込んだ。
「・・・そうね。そうだわ」
声に、わずかに力が戻る。
だが、隣のシュリの胸は揺れていた。
頭の片隅で、以前サムが口にした言葉がよみがえる。
『キヨ様は、どんな不可能な現実も形にする力がある』
その言葉が血の気を引かせる。
もし本当にそうなら、ユウが恐れる未来もまた、意思あるかたちで現れてしまうのではないか。
戦で――死ねばいい。
そんな願いは決して口にしてはならない。
ユウにも言えない、誰にも言えない。
胸の奥に救いを願う気持ちが湧くのを止められなかった。
次回ーー本日の20時20分
戦の冬、レイを想いながら穏やかに過ごす三姉妹。
だが、ユウの机に並ぶのは“毒”と“殺める方法”の書。
そして――新しい衣を纏ったシュリが侍女たちに囲まれる光景が、
ユウの胸にかすかな棘を落としていく。
静かな城に積もる雪の下で、
姫の心だけが静かに燃えはじめていた――。
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シリアス × 非テンプレ × 長文 × 群像劇
という、“なろうで読まれにくい四大要素”を見事にコンプリートしている小説。
読んでくれる皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。




