戦の前の告白 ― 私に見せてください ―
◇ロク城 妾・メアリーの部屋
明日――出陣の日。
城のあちこちに、戦の前に漂う独特の緊張感が流れていた。
ウイは緊張で足を震わせながら、扉をノックした。
控えめで、かすかな音。
この一歩を踏み出すまでに、何度も鏡の前で言葉を練習した。
けれど、すぐに中から声が返り、扉が開いた。
「ウイ様。お待ちしておりました」
灰色の瞳をしたメアリーが、柔らかく微笑んだ。
その微笑みには、いつもどこか母性が宿っている。
昨夜、ウイはメアリーに“どうしてもリオウに渡したいものがある”と相談していた。
この場を設けてくれたのは、メアリーだった。
「弟は、明日、出陣前に私の元に来るわ。あなたが渡したいなら、今しかないわ」
そう言って、彼女はウイの背をそっと押してくれた。
部屋の奥に――リオウがいた。
椅子に腰を掛け、背筋をまっすぐに伸ばしている。
黒色の髪が光を受けて輝き、横顔はどこか寂しげだった。
ーー相変わらず・・・素敵なお方。
ウイは頬を染めた。
父の面影を色濃く映す従兄弟のリオウ。
ウイが一歩踏み入れた瞬間、リオウは小さく顔を上げた。
「ああ・・・ユウ様の妹の――」
そこで言葉が止まった。
そして、ウイの背後をちらりと見る。
――姉上を、探している。
ウイの胸がきゅっと締めつけられた。
自分は、彼にとって“ユウの妹”。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、笑顔を崩さずに頭を下げる。
「ウイです」
メアリーが微笑みながら、テーブルにりんごの砂糖漬けを並べた。
ほんのり甘い香りが部屋を満たす。
「今日は、ウイ様だけなのですよ」
そう離して、紅茶を注ぐ。
「姉上は・・・お忙しくて」
ウイはそう答えながら、胸の奥で波打つ鼓動を押さえた。
――今日こそ、渡さなければ。
手の中にある包みをそっと触れる。
毎晩、部屋の明かりを落とし、月明かりだけを頼りに針を動かしていた。
指先は何度も糸で擦れ、痛みを覚えたが――それでも手を止めなかった。
無事に・・・帰ってきてほしい。
その願いを込めて縫ったもの。
――これが、私にできる唯一のこと。
震える指先をそのままに、小さな包みを取り出した。
「実は・・・これを、お渡ししたくて」
包みの中には、コク家の旗印が刺繍された布。
白布の上に浮かぶ黒と銀の糸。
「まぁ!」
メアリーは小さな声を上げた。
かつてキヨに滅ぼされた生家の旗印。
その紋が、今また甦ったのだ。
リオウが驚いたように目を見開く。
「・・・また、頂けるのですか」
半年前の争いでも、ウイは旗印の刺繍を贈っていた。
「前にお渡ししたものは・・・汚れてしまっていると思って」
リオウはその布を受け取り、静かに微笑んだ。
「・・・あの印を肩につけたおかげで、私は命を救われました。ウイ様のおかげです」
深々と頭を下げる姿に、ウイは小さく息を吸い、まっすぐに言葉を重ねた。
「戦の前に、つけていてください。無事に帰ってこられるように――」
沈黙。
リオウの指が、慎重にその旗印を撫でた。
白い布の上をなぞる指先は、まるで祈るように静かだった。
「・・・ありがとうございます。ウイ様の刺繍は、本当に見事ですね」
にっこりと笑うその姿に、ウイの頬が熱を帯びる。
その微笑みを見たのは、これが初めてだった。
「リオウ様」
ウイは、ほんの少しだけ勇気を振り絞った。
「・・・どうか、必ずお戻りください」
その声はかすかに震えていた。
「はい」
リオウは真っすぐにウイを見つめた。
ーー渡せた。
そして、伝えることができた。
ウイの胸に静かな喜びが滲んだ。
メアリーが静かに紅茶を注ぐ音が、静かな部屋に広がる。
冬の光が、黒と銀の刺繍を淡く照らしていた。
その頃、別の部屋でも――静かな戦が始まろうとしていた。
◇ ユウの部屋
「――絶対に着ません!」
怒りを孕んだユウの声が、部屋の壁に鋭く響いた。
カーテンが微かに揺れる。
冬の風よりも冷たいその一言に、部屋の空気が張り詰める。
「そこを・・・何とか」
普段は冷静なイーライが、珍しく眉尻を下げて頼み込んだ。
額にうっすらと汗が滲む。
命じたのはキヨだった。
「ユウ様に見送りをさせよ。そして、あの水色のドレスを着せろ」と。
それは、かつてキヨが自ら贈ったドレス。
冷たく光る絹糸に、彼の歪んだ支配欲が編み込まれたような一着だった。
イーライは主命に背くわけにもいかず、こうしてユウの前に立っている。
ーーどうして、よりによってこの方に・・・。
イーライは心の中で苦く呟いた。
ユウはただ黙って立ち尽くし、冷たい青の瞳をイーライに向けた。
「・・・あの男は、妹の領までも奪おうとしているのよ」
ユウは静かに口を開いた。
その声には、怒りよりも深い――決して揺らがぬ“意志”の響きがあった。
「はい・・・存じております」
イーライは落ち着かない面持ちで瞬きを繰り返した。
目の前にいるのは、若き姫。
けれど、その言葉の一つひとつは、鋭い刃のように胸を刺す。
「そんな男の出陣を見送れと?」
ユウの声に、沸々と怒りが滲んだ。
イーライは息を詰める。
「・・・あの男が作らせたドレスだなんて――絶対に身にまとわない」
その言葉に、イーライは何も返せなかった。
主君の命令よりも強い“姫の誇り”が、確かにそこにあった。
ーーこの状況をどうすればいい?
頭が切れ、口が立つと評されてきた自分の評判など、この姫の前では粉々だ。
どうやって、この方を説得するのか・・・。
イーライには見当もつかなかった。
「ユウ様」
同じ部屋にいたシュリが、穏やかな声で口を開いた。
「イーライ様は先日、私と共に乗馬をしました。ユウ様をお守りするために」
その言葉に、ユウは少し居心地悪そうに目を伏せる。
――確かにそうだった。
癇癪を起こし、城外を飛び出した自分に、シュリと共に付き添ってくれた。
「イーライ様のお陰で、私は助かりました」
シュリは一歩前へ出た。
「半年前、キヨ様に約束されたではありませんか。“今度の出陣の時は、見送りをする”と」
穏やかな微笑み。
ユウは小さくため息をついた。
――約束は、した。
「けれど、あの男は・・・セーヴ領を・・・」
ユウは言葉を詰まらせる。
「笑顔で見送らなくても良いのです。そこに“いる”だけで」
シュリの声には、不思議な力があった。
ユウの胸の奥で、怒りの熱がわずかに鎮まる。
「・・・あの男が仕立てたドレスなど・・・」
ユウの声の勢いが、少しだけ弱まった。
「キヨ様のために着なくても良いのです」
その言葉に、ユウが顔を上げた。
――どういうこと?
そう言いたげに、青い瞳がシュリを見つめる。
イーライもまた、先の展開が読めずに顔を上げた。
シュリは一瞬だけ顔を赤らめ、軽く咳払いをして言った。
「・・・私に見せてください。ユウ様が着れば・・・きっとお似合いです」
風がわずかにカーテンを揺らし、部屋の空気が柔らかく変わる。
少しの沈黙。
そして、ユウの頬がわずかに赤く染まった。
シュリは耳までが赤くなっていた。
「イーライ様も・・・見たいですよね?」
「・・・!」
イーライは息を呑む。
ーーやめてくれ、こちらに振るな!
そう思いつつも、前回の行動でユウが負い目を感じている――今が絶好の機会。
聡い彼は、じっとユウの瞳を見つめた。
頬に熱が上るのを感じながら、絞り出すように言った。
「・・・もちろんです。私も・・・見たいです」
その声は、少しかすれていた。
ユウの視線が一瞬、揺れる。
沈黙の中に、何かが確かに動いた。
「・・・私とイーライのために、着てもらえますか」
シュリはまっすぐにユウを見つめた。
その真剣な眼差しに、ユウは静かに息を呑む。
ーーシュリのために?
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
その言葉は、命令でも進言でもない。
一人の青年の願いのような気がした。
彼の声音は穏やかなのに、なぜか、触れてはいけない場所を撫でられたように熱い。
・・・シュリは、私を説得しているだけ。
でも、もし――それ以上の意味があるのなら・・・。
心のどこかで、恐れにも似たざわめきが広がった。
乳母子として顔を崩さずにいる彼が、いま“個人”として話している。
その一線の危うさを、ユウ自身が一番よく分かっていた。
少しの沈黙のあと、ユウは視線を伏せ、髪を耳にかけた。
「・・・それなら、着るわ」
その声は、上擦っていた。
けれど、その夜――ユウはまだ眠れずにいた。
明け方、外の空が白む頃。
彼女は一人、廊下を抜けて歩き出す。
次回ーー明日の20時20分
夜明け前。
ユウは静かに歩き出し、シュリはその背をただ見守っていた。
ユウは震える声で、妹レイの夫・セージの命乞いをする。
許すために、護るために。
そして“あの男”に立ち向かうために――
少女は戦の朝を迎える。




