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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第3章 潮騒の婚礼 ――そして戦が始まる
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あの人が涙を流す姿は、見たくありません ―冬の湖にて―

「さむい・・・」

早朝、稽古へ向かう道で冷たい風が頬を刺した。


夜明け前の空を見上げると、今日もどんよりとした灰色の雲が広がっている。


「・・・冬が近いな」

シュリは小さく肩をすくめた。


馬場では、すでに多くの兵が鍛錬を始めている。


掛け声と木剣のぶつかる音が、薄暗い空気の中に響いていた。


「失礼します」

小さく頭を下げ、シュリは木剣を手に取る。


「シュリ、一緒にどうだ」

チャーリーが声をかけた。


「ありがとうございます」


その返事と同時に、シュリは一歩、土を蹴った。


鋭い踏み込み。


木剣が風を裂き、乾いた衝撃音が稽古場に響く。


動きは流れるようでいて、寸分の無駄がない。


打ち込むたびに、力と静けさが一体となる。


見守る兵たちは誰も言葉を発せず――ただ、その強さに見入っていた。


チャーリーの剣が風を裂き、見物していた兵たちの間に緊張が走る。


「・・・シュリ、うまいな」

オリバーが感嘆の声を漏らした。


「ああ。見事な剣筋だ」

隣で腕を組むロイの目が細められる。


「これほどの腕前なら、戦に出ればすぐに功績を上げられるはずだ」


「・・・だろうな」

ロイは低く応じた。


視線の先では、風を切るたびにシュリの外套が揺れている。


「だが、シュリは出陣できない。キヨ様も“絶対に出すな”とお触れを出している」


「・・・勿体ない話だ」

オリバーの声に、悔しさが滲んだ。


「それも・・・シュリが望んだことだ」

ロイが静かに言葉を落とす。


二人の胸中には、同じ思いがよぎっていた。


――全ては、ユウ様を守るため。


「そこまで!」

サムの声が馬場に響いた。


声をかけられたシュリとチャーリーは、同時に動きを止める。


二人の呼吸が白く揺れ、冬の朝の空気に混じった。


「チャーリー、朝から全力を尽くすと草臥れるぞ」

サムは口元に笑みを浮かべる。


彼も、そしてこの場にいるロイやオリバー、チャーリーも――

かつてはシリとグユウに仕えていた古参の家臣たちだ。


若きシュリを見つめるその眼差しには、主君を失った者たちの複雑な想いが宿っていた。


「若い者と、ついムキになって張りあった」

チャーリーは息を吐きながら、肩にかかった汗を拭った。


「シュリ、見事だ」

サムはゆっくりと拍手を送った。


「ありがとうございます」

額に汗を滲ませたシュリが、深く頭を下げる。


一瞬、空気が緩む。


けれどそのあと、サムの表情が少しだけ引き締まった。


「・・・ちょっと、良いか」

馬場の端を目線で示す。


「はい」

シュリは木剣を脇に抱え、静かに後をついていった。


二人は岸辺まで足を運んだ。


湖の色は、夏の鮮やかな青とは違い、深い紺色に沈んでいた。


風が冷たく頬を撫で、波が小さく岸を叩く。


サムはしばし黙って湖を見つめ、やがて静かに口を開いた。


「・・・シュリ、間もなく争いが始まる」


「えっ」


思わず息を呑むシュリ。


だが、その目の奥ではすでに、ひとつの名が浮かんでいた。


「それは・・・どこの領と・・・」

問いかけながらも、答えはおおよそ分かっていた。


強大な力を握り始めたキヨに、唯一、対抗できる人物は――。


「西領のジュン様だ」

サムが低く告げる。


――やはり。


湖面に映る冬の空が、わずかに揺れた。


「ジュン様が抵抗している間は、キヨ様は国王にはなれない」

サムの声は穏やかだったが、奥に確かな緊張があった。


「・・・争いは、春になってからですか」

シュリはできるだけ落ち着いた声で尋ねた。


「いや。もう半月もすれば出陣だ」


「これから、雪が降りますよ?」

思わず目を見開く。


「戦地は西領で行う。あそこは冬でも雪が降らん」

サムは淡々と話した。


「雪が降る前に、キヨ様は出陣するだろう」


その声は、波よりも静かで、冷たかった。


「・・・そうですか」


サムは一度、目を閉じた。言葉を選ぶ間が、やけに長く感じられた。


「・・・セーヴ領が、ジュン様側につきそうだ」


「えっ・・・」

シュリは声を失った。


風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。


サムは静かに頷いた。


「セーヴ領は・・・レイ様が嫁がれたところ・・・」

その声は、掠れていた。


「あぁ・・・」

サムの返事も、どこか痛みを含んでいた。


「そんな・・・」

シュリの言葉が、足元の砂に落ちるように消える。


しばし、沈黙。


穏やかな波がひとつ、岸を打った。


「・・・まだ確定ではない。けれど――」

サムは遠く、湖の向こうを見つめた。


その目には、すでに覚悟の色があった。


サムの胸に、苦いものが込み上げた。


伝えるべきことを、告げ終えたあとも心の奥では痛みが広がっていく。


――まだユウ様が幼かった頃。


レーク城のホールで、シリ様とグユウ様、そして幼い三姉妹と共に食事をした日があった。


家臣たちの笑い声、温かな灯、外では春の雪がまばらに降っていた。


あのとき、シリ様が穏やかな声で言った。


『この子たちは・・・争いのない日々を歩んでほしいわ』


その言葉に、グユウ様は短く『あぁ』と頷いた。


その時すでに、城は落城寸前だった。


勝ち目のない戦の中で、二人はただ、子らの未来を願っていたのだ。


自分たちが歩んだ道が、あまりにも痛みに満ちていたからこそ。


せめてこの子たちには、穏やかな明日を。


胸の奥に、重たい痛みが広がる。


歴史は、また繰り返そうとしている。



シュリは何も言えなかった。

胸の奥がきしむ。


――姉と妹が、剣を向け合う日が来るのか。


どちらが勝っても、負けても、残るのは痛みだけ。


しん、と風が止む。


湖の面が、一瞬だけ空を映した。


脳裏に浮かぶのは、あの人の顔。


燃えるような金の髪、冷たいほど澄んだ青の瞳。


「・・・これ以上、あの人が涙を流す姿は、見たくありません」


その呟きは、静かな湖面に吸い込まれていった。


湖面に映る冬空が、風に揺れた。


次の瞬間、遠くで鳥の群れが飛び立った。


それは、まるで“何かの始まり”を告げる合図のように思えた。


次回ーー本日の20時20分


妹レイの領が“敵”になる――

その知らせに、ユウの怒りは一気に燃え上がった。

激情のままキヨのもとへ駆け込もうとするユウ。

止めようと追うシュリとイーライ。


その朝、三人の運命の歯車が、大きく軋み始める。

「彼女は炎そのもの」


登場人物紹介 ー今回登場した人物の補足ですー


サム

かつてグユウ・シリ夫妻に仕えていた重臣。

今はキヨの側で領の運営を支える。

温厚で誠実だが、心の奥に深い喪失と責任を抱えている。


チャーリー・ロイ・オリバー

シリに仕えていた家臣たち。

現在はキヨを支える立場にあり、それぞれ剣・戦略・民政に長ける。

彼らの忠誠の根には、シリへの深い敬意と、かつての主君を失った痛みがある。


シュリ

ユウの乳母子。若くして剣の才に恵まれた青年。

「ユウを守るために戦に出ない」と決めたその選択が、静かな誓いの象徴となる。


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