海の涙と戦の兆し
◇セーヴ領 城下
「本当に・・・ここは温暖な気候ですね」
潮風の中で、乳母のサキが目を細めた。
海から吹く風は柔らかく、空はどこまでも澄んでいる。
レイがこの地に嫁いで、もう一ヶ月が経つ。
夫である主――セージとは、夫婦としての交わりはない。
けれど、互いを気遣う静かな交流があった。
それは、夫婦というよりも、どこか兄と妹のような関係に近い。
セージは時折、日焼けした横顔を柔らかく向け、
「無理はしていないか?」と穏やかに声をかける。
その度に、レイの胸の奥が静かに熱くなる。
――あの人の隣に、似合う女性になりたい。
レイは、そんなことを思うようになっていた。
ーーでも、それは恋なのだろうか。
浜辺に吹く潮風が黒髪を撫でる。
レイは遠くの水平線を見つめながら、そっと息を吐いた。
ーー姉上、ユウの姿が脳裏に浮かぶ。
ユウとシュリ。
二人の間にある、決して口にされぬ想い。
それでも、交わされる眼差しの中には確かな情熱があった。
――あれが“恋”なら、私のこの気持ちは・・・まだ違う。
胸の奥でそう呟くと、少しだけ潮風が冷たく感じた。
その時だった。
足元の砂浜で、陽の光を受けて何かがきらりと光った。
「・・・これは?」
レイがしゃがみ込み、そっと手に取る。
光の粒のようなそれを指先で転がすと、まるで宝石の欠片のように輝いた。
「それは、シーグラスでございます」
傍らに控えていた侍女が、微笑んで答える。
「シーグラス?」
「はい。海の中で長い時間をかけて、
波と砂に磨かれて角が取れた、『ガラスのかけら』です。“海の涙”とも呼ばれます」
「海の・・・涙」
レイは小さく呟いた。
指先の上で光る淡い緑色が、どこか切なく見える。
「こんなに綺麗なのに・・・涙なんですね」
「ええ。けれど、だからこそ美しいのです」
侍女は潮風の中で微笑んだ。
レイはその言葉を胸の中で繰り返した。
――傷つき、削られて、それでも輝く。
それはまるで、母上や姉上の生き方のようだった。
潮の香りと共に、レイの髪が風に舞う。
ーーこれをセージ様に見せよう。
レイは胸の中で小さく呟き、拾ったシーグラスを大切に握りしめた。
◇
海辺から少し離れると、
潮の香りが薄れ、かわりに石造りの城の冷たい空気が広がった。
執務室は二階の奥、いつもセージが海図と交易の帳簿を広げている場所だ。
階段を上がりながら、レイは胸の中のシーグラスを握りしめた。
ーーどんな顔をするのかしら。
潮風の中で見つけた小さな宝物を、あの穏やかな笑顔に見せたかった。
だが――
執務室の前まで来た時、中から聞こえた声に足が止まった。
低く、押し殺したような男たちの声。
机を叩く音、椅子が軋む音。
穏やかな談笑ではない。
レイは思わず扉の隙間に耳を寄せた。
「・・・キヨ様の軍が北へ兵を進める計画を立てています」
年配の家臣の声だった。
「ジュン様の領に侵攻するつもりかと」
「・・・やはり、そう来たか」
聞き慣れた声――セージだ。
普段よりも低く、鋭い。
「このままキヨ様につけば、我らの海も、交易にも影響があります」
「ですが、ジュン様につけば・・・ワスト領、つまり妃の領を敵に回すことになります」
短い沈黙。
その間に、波が遠くで砕ける音が響いた。
レイの胸がざわめく。
セージの声が再び響いた。
「俺はジュン様に恩がある。かつて海路を整える際、支援してくれたのはあの方だ。
そして、民を思う心がある。血を流して王となろうとする男とは違う」
「・・・キヨ様を敵に回されるおつもりですか」
家臣の一人が低く問う。
「今、一番勢いがある領主です」
「西領のジュン様も、その器と実力があります」
家臣たちの意見が飛び交う中、セージは無言のままだった。
――ジュン様につく?
レイは息を詰めた。
それは、姉上と姉様がいる領と争うことになる。
「この海を、血で汚させるわけにはいかない・・・とはいえ、どうしたら良いのか・・・」
セージの声がさらに低くなる。
部屋の中が静まり返った。
誰も言葉を発しない。
海のような静寂の中で、セージの言葉だけが響いていた。
レイは息を詰めた。
握りしめたシーグラスが、手の中で痛いほどに食い込む。
「・・・俺は、民を守りたい。誰かの野心のために、海を戦場にしたくない」
その言葉を聞いた瞬間、
レイの中にある“恐れ”と“敬意”が同時に芽生えた。
ーーあの穏やかな笑顔の裏に、こんな決意を秘めた人だったなんて。
レイはそっと扉を見つめ、小さく呟いた。
「・・・セージ様」
目の奥が熱くなる。
セージの声はどこまでもまっすぐだった。
握りしめたシーグラスを見下ろす。
海に磨かれて輝くその欠片は、どこか彼の心のように見えた。
――強くて、優しい。
けれど、その強さは、痛みを伴うもの。
姉上と姉様を敵にまわすなんて・・・考えられない。
レイはゆっくりと扉に背を預け、目を閉じた。
「レイ様」
隣にいた乳母のサキが声を潜めて裾をそっと引いた。
レイは小さく頷き、廊下を歩き出す。
足音が石の床に静かに響いた。
「・・・先ほどの話は、聞かなかったことにいたしましょう」
サキの声は低く、しかし決して弱くはなかった。
「でも・・・」
レイの黒い瞳が揺れる。
「・・・何も知らない。その方が良いのです」
それは、女としての“嗜み”でもあった。
政の話には口を出さず、ただ穏やかに微笑み、
他愛もない言葉で男に安らぎを与える。
それが、妻としての美徳とされていた。
「・・・でも、母上は・・・」
レイの唇が震える。
どんな状況でも、顔を上げて、争いの指揮をとっていた。
「シリ様は・・・特別です」
サキの返した言葉は、まるで風のように淡かった。
――こんなに胸騒ぎがするのに。
それを黙っているなんて。
私に、できるのかしら・・・。
レイは歩を止め、窓の外に目を向けた。
灰色の雲が流れ、波の向こうで光が滲んでいる。
その空の奥で、
姉たちの領が――静かに、戦の気配を帯び始めていた。
短編を書きました。
このお話より14年前の若き日のキヨも登場しています
◆嫌いが恋の入口だなんて――誰が想像しただろう
https://book1.adouzi.eu.org/N5943LJ/
妃シリを“嫌い”と決めつけていた家臣オーエンが、
その感情の正体に気づいてゆく物語です。
良かったらどうぞ。
次回ーー明日の9時20分
冬の気配が忍び寄る中、シュリは湖畔で“近い未来”の現実を知らされる。
半月後、キヨとジュンがぶつかる――そして、その渦にレイの嫁いだセーヴ領まで巻き込まれるかもしれない。
「これ以上・・・あの人が涙を流す姿は、見たくない」
静かな冬の湖が、戦の始まりを予感させていた。




